世界のバレリーナが残した煌めく白鳥の遺産ーアンナ・パヴロワー
2月12日は、20世紀初頭のロシアのバレリーナ、アンナ・パヴロワ が生まれた日。(1881年2月12日- 1931年1月26日)
【生い立ち】
帝政ロシア時代のサンクトペテルブルグ生まれ。間もなく父親は亡くなったとされ、母子家庭で育つ。「おとぎの国へ行きましょう」。
つつましい生活の中、母からのクリスマスプレゼントが初めてのバレエ鑑賞だった。
『眠れる森の美女』を観て、心を奪われた。パヴロワ、9歳であった。
10歳で難関の帝室バレエ学校入学、卒業時の試験が優秀であったため群舞を経ずにコリフェとしてマリインスキー・バレエに入団。
"色白・細長の顔に狭い肩幅、美しい足”という理想的な体型を持っており、最晩年のマリウス・プティパに才能を認められたため、貧しい家の出であったにもかかわらず順調に昇進していく。
【世界のバレリーナへ】
やがて23歳で、『ジゼル』の主役に抜擢。優雅に蝶のように舞うロマンティック・バレエで観客を魅了する。25歳でプリマに昇格。
代表作は『瀕死の白鳥』。同期生で振付師となるフォーキンがサン=サーンスの『白鳥』の振り付けをし、命が燃え尽きる寸前に懸命に羽ばたこうとする白鳥の儚げな舞いに、観客は魅了される。
ロシア革命の騒乱を逃れて1912年にイギリスのロンドンに移住。その後は自前のバレエ団を結成し、世界中で活躍した。
【瀕死の白鳥】
けれども旅の途中。1931年、風邪をこじらせたパヴロワは、オランダのハーグ到着後に胸膜炎と診断された。外科手術を勧められるも、手術をすればバレリーナとしては再起不能になると告げられたためにこれを拒否し、闘病の末に死去。享年50歳。
「白鳥の衣裳を用意してちょうだい」が最後の言葉だったという。
「立ち止まることなく一つの目的を追い求めること。これが成功するための秘密です」
【日本バレエの礎に】
1922年、バレエの公演が日本で初めて公演されることに。場所は、帝国劇場。パヴロワの初めての来日公演だった。演目は、『瀕死の白鳥』、『レ・シルフィード』などだった。これをきっかけに、日本においてバレエが定着・普及することになった。
パヴロワの公演を観た芥川龍之介は、
「「瀕死の白鳥」は美しい。僕はパヴロワの腕や足に白鳥の頸や翼を感じた。同時に又みおやさざ波を感じた。更に僕自身あきれた事には、耳に聞こえない声も感じた。パブロワもかうなれば見事である。たとひデカタンスの匂はあってもそれは目をつぶれぬ事はない。僕は兎に角美しいものをみた。」と絶賛していたそう。
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