男装し、煙草を吸い、馬で闊歩したフランス最後の皇后
5月5日は、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后、ウジェニー・ド・モンティジョが生まれた日。(1826年5月5日 - 1920年7月11日)
父親譲りの勇敢さと彼女の美しさの評判はフランスだけではなく、ヨーロッパ中で知られ、ファッションリーダーとして、現在のインフルエンサーの比にならないほど一世を風靡した。
生い立ち
スペイン・グラナダ出身。
テバ伯爵・モンティホ伯爵・アルガバ侯爵およびペニャルダ公爵の称号を持つスペイン貴族ドン・シプリアーノ・パラフォクス・イ・ポルトカレッロと、裕福な外交官の娘マリア・マヌエラ・キルクパトリックの間に生まれた。当時の名はマリア・エウヘニア・イグナシア・アグスティナ・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリック。姉は、「パカ」ことマリア・フランシスカ・デ・サレス。
姉妹は、厳格なカトリックであるサクレ・クール寺院女子修道院で教育を受ける。エウへニアは、当時からフランスで知られていた。家庭ではフランス語を日常語として使っていた。幼い頃から父の手ほどきで乗馬をし、水泳も幼い頃から好んだスポーツである。
幼少の頃より母のサロンで、『カルメン』のメリメや『赤と黒』などで知られるスタンダールと交流を深めた。メリメはウジェニーの生涯の友となっている。
エウヘニアが13歳の時、最愛の父ドン・シカプリアーノは亡くなった。姉のパカが、ほとんどを相続。パカは、エウへニアの初恋の相手、幼馴染の第15代アルバ公ハコポ・フィツ=ハメス・ストゥアルトと結婚。大きなショックを受ける。
失恋の痛手から男装しマドリードの町を煙草を吸いながら闊歩したり、裸馬で町を疾走したり、闘牛場に男装して現れるなどの奇行が5年ほど続けたものの、最終的には姉夫妻と生涯交流を深めた。
21歳になると、亡き父の持っていた称号を受け継ぎ、第9代テバ女伯を使用し、フランスの社会主義理論家のシャルル・フーリエが提唱する独自の社会主義思想に傾倒していった。
彼女は各国の王侯貴族から求婚されているが、すべてを断り続け、やがて「鉄の処女」と言われるようになる。
エウヘニアは母とともにエリゼ宮でのルイ=ナポレオン・ボナパルトと舞踏会で出会い、1853年1月30日、ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン)と、ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた。
名前の読み方もフランス語読みのウジェニーとなった。
1856年3月16日、ウジェニーは皇子を生んだ。ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ・ボナパルト(ナポレオン4世)である。
ウジェニーの美しさ、気品とマナーの魅力は皇帝支配の輝きに貢献、ファッションでも1855年に着けた新しい骨組みのクリノリンは、ヨーロッパに流行を巻き起こした。
嫁いで間もなく、慈善活動にも力を入れており、公務の合間には深々とヴェールをかぶり、お忍びで慈善バザーや病院を見舞っていた。女性の社会活動にも尽力し、1866年には女性を初めて電報局で雇用している。
ウジェニーは、ナポレオン3世の右腕としても活躍することになる。ただ、カトリックで保守的であったため、帝政のあらゆるリベラル勢力と対立した。
晩年
普仏戦争でフランスが敗れ、第二帝政が覆された後、皇后は夫とともにイギリス、ケント州のチズルハーストへ亡命。王室や国民に歓迎され、心穏やかな余生を送る。
ウジェニーは1920年7月に義兄であるアルバ公をマドリードに訪ねた際、死去。享年。94歳
夫と、1879年に南アフリカのズールー戦争で戦死した息子ナポレオン・ウジェーヌともにイギリス、ファーンバラの聖マイケル修道院眠っている。
遺産の一部、10万フランはランスの大聖堂再建委員会に寄付されたそう。
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