ヴィクトリア女王を女王たらしめた母の愛〜ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド
8月17日は、イギリス・ヴィクトリア女王の母、ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド が生まれた日。ケント公エドワード・オーガスタスの妃。
(1786年8月17日 - 1861年3月16日)
名前が二人とも一緒なので、
こちらでは母を大ヴィクトリア、
娘を小ヴィクトリアと呼ぶことにします。
大ヴィクトリアは、
ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)中部のザクセン=コーブルク=ゴータ公国生まれ。
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツと
ロイス=エーベルスドルフ伯家出身のアウグステとの間の四女。
神聖ローマ帝国の中でも大きな領地と実力を持つバイエルン公国のライニンゲン侯エミッヒ・カールと18歳で結婚。
エミッヒは、41歳。
再婚で、先妻はマリーの叔母にあたるヘンリエッテ。
一男一女をもうけた。
エミッヒとは1814年に死別。
大ヴィクトリアは、28歳だった。
一方その頃イギリスでは、
「血統的に次次代の王になれる人物がいない」と大騒ぎで、
王族の中で正式な結婚をしていない男性が
妃候補を探していた。
そのうちの一人、
ケント公エドワード・オーガスタスが大ヴィクトリアを選び、プロポーズ。今度は19歳上の夫だった。
夫妻はしばらくドイツで暮らしていたが、
子供をイギリス生まれにしたほうが
後々都合がいいという理由で、
大ヴィクトリアが妊娠中にロンドンへ。
しかし、小ヴィクトリア誕生から
一年も経たないうちに、
今度はケント公が亡くなってしまうという事態に。
娘を残してドイツへ帰るか。
娘を将来女王にするという将来に賭けて言葉も話せないイギリスに残るか。
大ヴィクトリアは、後者を選び、
ケンジントン宮殿で暮らすように。
王族にしては珍しく、
二人は常に寝起きのみならず、
行動も共にしたそう。
そうして大ヴィクトリアは、
小ヴィクトリアを守った。
大ヴィクトリアはアイルランド人秘書の
ジョン・コンロイから英語を熱心に学び、
やがて政治にも口を出すように。
全ては小ヴィクトリアのためだった。
また、大ヴィクトリアは早いうちから娘の王位継承を考え、
儀礼的にヴィクトリアを王女として扱うよう、あちこちに強要。
国王ウィリアム4世は、何かと出過ぎるドイツ出身の大ヴィクトリアを嫌悪するようになり、自身の誕生日の晩餐会で罵倒した。が、小ヴィクトリアに対しては好意を持っていた。
ウィリアム4世が亡くなると、
小ヴィクトリアが女王に即位。
賢かった小ヴィクトリアは、
その日から母と寝室を分け、ジョンとも距離を取り、
中立的な政治姿勢を取った。
が、小ヴィクトリアがやがて結婚し、
出産するときは、大ヴィクトリアが立ち会い、
生涯上手に付き合ったといわれている。
1861年に74歳で病没し、ウィンザーに葬られた。
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