ヒットメーカーから生まれ変わった感動の作詞家、岩谷時子の物語
3月28日は、作詞家、岩谷 時子が生まれた日。(1916年3月28日 - 2013年10月25日)
歌手・越路吹雪のマネージャーを務めたことでも知られる。
1993年 勲四等瑞宝章受章
2009年7月7日 公益財団法人 岩谷時子音楽文化振興財団設立
2009年10月、平成21年度文化功労者顕彰
2010年4月、岩谷時子賞創設
【生い立ち】
京城府(現在のソウル特別市)生まれ。
父は東京高等商業学校(一橋大学の前身校)を出て貿易商社勤めで、母は明治のモダンな女性だった。5歳の頃に兵庫県西宮市に移住。
【越路吹雪と共に】
1939年に神戸女学院大学部英文科を卒業後に、宝塚歌劇団出版部に就職。宝塚歌劇団の機関誌である『歌劇』の編集長を務めた。
そうした中、8歳下の当時タカラジェンヌで15歳の越路吹雪と出会う。2人は意気投合し、越路の相談相手となる。越路が宝塚歌劇団を退団して歌手になりたいと相談したとき、岩谷も退職を決意。小林一三が一人では不安だからと同行させて上京し、東宝文芸部所属になる。越路の付き人を務めた。その後、自らが作詞家として成功しても自分の本業を聞かれるたび「越路吹雪のマネージャー」と答えていた。
1951年から1963年までは東宝文芸部に所属。会社員として働く傍ら越路をサポートし、越路が亡くなるまでの約30年間、マネージャーとして強い信頼関係で支え続けていた。
【作詞家として】
マネージャーとして活動する一方で、初めて、訳詩、作詞を手掛けたのが、エディット・ピアフの『愛の讃歌』だった。以降、ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』、加山雄三『君といつまでも』、ピンキーとキラーズ『恋の季節』など数多くのヒット曲を生み出してきた。特に加山雄三の曲の作詞も手掛けた。
【最後の仕事】
ミュージカル『ミス・サイゴン』の訳詞を手がけたことがきっかけで、主演した本田美奈子と親交を深める。本田の才能を「越路の再来」と高く評価し、『アメイジング・グレイス』など数多く訳詩、作詞を提供した。
越路吹雪亡き後、封印していた『愛の讃歌』を歌わせるほど目にかけていた。レコード会社関係者によれば、本田は日本のサラ・ブライトマンになるはずだった。本田も生前、「先生に目をかけていただき光栄です。先生は私の声の中に天使と悪魔がいるとおっしゃっているの。」と嬉しそうに語っていたそう。
偶然にも、本田が死去する直前、足を負傷して本田と同じ病院に入院。ボイスレコーダーを通して、当時無菌室に入っていた本田を激励した。
本田美奈子『アメイジング・グレイス』
2013年10月25日、肺炎のために東京都内の病院において死去。97歳没。
余談ですが、私の実家で生まれた子犬を本田美奈子さんの家でもらっていただき、ずいぶんと可愛がってもらいました。もう40年も前の昔の話です。
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