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日本の随筆家、白洲 正子

1月7日が、日本の随筆家、白洲 正子が生まれた日。(1910年1月7日 - 1998年12月26日)享年88歳。

東奔西走する姿から、「韋駄天お正」とあだ名された。読売文学賞二度受賞。

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グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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明治の終わりに生まれた正子は、学習院女子部初等科を修了後、14歳で渡米してハートリッジ・スクールに入学、卒業後にあの白洲次郎と結婚。1943年には東京都町田市の古農家に移り住む。

この頃から正子は文筆家としての道を進み始め、同時に古美術への造詣を深めた。

戦後は、銀座の染織工芸店「こうげい」の経営に参加して、普段着としての和服の魅力を多くの人に伝えていった。

和服の作り手たちと交流することで、多くの作品を紹介。作り手と着る人の距離を近づけた。

特に着物作家、田島隆夫に対しては当初、「着ているうちに“腰”がなくなり、着物としては不完全」と告げ、それを田島氏は黙って受け止め、何度も何度も正子のもとに布を織っては訪れたそう。

田島氏と正子との手紙のやり取りの一部を以下に。

 「糸のなりに おりたる絹の
 あたたかさ
 つくりし人の 心にもにて」

正子が愛した絣や紬はどれも正子の美意識にかなったもので、同時に普段着として着られる実用性もあった。

さて、白洲次郎との結婚生活の秘訣は?と聞かれると、いつも「一緒にいないこと」と答えていた。

お互いの仕事の世界へは入らないという不文律があったようで、喧嘩はほとんどしたことがなかった。


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