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亡命を拒否し、愛するドイツに残った最後の皇太子妃 〜ツェツィーリエ・ツー・メクレンブルク〜

9月20日は、帝政ドイツ最後の皇太子ヴィルヘルムの妃、ツェツィーリエ・ツー・メクレンブルクが生まれた日。

(1886年9月20日 - 1954年5月6日)

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ3世とその妻でロシア大公ミハイル・ニコラエヴィチの娘であるアナスタシア・ミハイロヴナの間の第3子、次女として生まれた。

「北のノイシュヴァンシュタイン城」と呼ばれるシュヴェリーン城で誕生。

1905年6月6日にベルリンにおいて、ドイツ皇太子・プロイセン王太子ヴィルヘルムと結婚した。

美しいツェツィーリエは人見知りしない性格で瞬く間に新しい環境に慣れ、飾らない人柄、エレガントな立ち居振る舞いで宮廷の人々だけでなく、一般大衆も魅了した。

帽子のコレクションが好きだったツェツィーリエは、当時のファッションアイコンだった。

ツェツィーリエは、女子教育の発展にも寄与し、社会貢献にも熱心だった。

だが、こうしたツェツィーリエの皇太子妃としての地位も、第1次世界大戦の終焉とともに起きたドイツ革命により、終わりを告げた。
32歳だった。

ツェツィーリエは退位した舅のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と皇后アウグステ・ヴィクトリア、そして夫の皇太子ヴィルヘルムと一緒に亡命することを拒否。

愛するベルリンに四男二女の子供たちとともに残り、以前にまして慈善活動に身を捧げた。

夫の皇太子は5年後、帰国を許されるも、ツェツィーリエは、別居という形の結婚生活を選んだ。
浮気を繰り返した夫に対して愛情はすでに無かった。

ツェツィーリエは君主制支持組織で熱心に活動をしたものの、1933年のナチ党が権力を掌握。
王室への人気を危ぶんだナチスは、組織を解体した。

ツェツィーリエの居場所は無くなり、ポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿で私人として暮らした。

ツェツィーリエは音楽に活路を見出し、自邸で演奏会を開き、将来有望な音楽家の育成に励んだ。
その中には若きヘルベルト・フォン・カラヤンもいた。

1939年9月、第二次世界大戦が勃発。

そして翌年、本来ならば皇太子であった長男がフランスで戦死。

無言の帰国をした彼の遺体が埋葬された時、道には5万人もの人が詰めかけた。
この影響力を重く見たナチスは、元皇太子のヴィルヘルムの住むツェツィーリエンホフ宮殿をゲシュタポの監視下に置き、警戒した。

1945年2月にベルリンへソ連が迫ると、ツェツィーリエは次男のルイ・フェルディナント一家と共に持ち運べるだけの荷物を持って安全なバイエルン、バート・キッシンゲンへ避難。
そこは、舅ヴィルヘルム2世の元侍医で皇帝一家の信頼厚いパウル・ゾーティアーが住まいを提供してくれた。

終の住処は、シュトゥットガルト郊外で生活した。元皇太子妃ツェツィーリエの国民的人気も復活した。

1954年世話になったバート・キッシンゲンのパウル・ゾーティアー家を訪れた際に脳梗塞で死去。享年68歳。

彼女の血統は今も脈々と続いている。


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