善意という悪

先日、現場の責任者と話をしていて、善意であるからこその難しさってあるよね、という話になりました。

やっている本人は「良かれと思って」という善意でも、それを受け取る側からすると余計なお世話、ということ実は少なくないように思います。

わたしたち援助職者にも実はその傾向強いよなぁ、と感じています。

仕事を始めたばかりの頃に先輩から「そういうのを小さな親切大きなお世話というのよ」と言われてハッとしたこともよく覚えていて、それからずっと小さな親切大きなお世話にならないように意識しています。

しかも、この良かれと思って、とか、あなたのためを思ってみたいな善意って、相手が思った通りに受け取ってくれないと「こんなにしてあげているのに」的な押し付けがましさがあり、余計に受け取る側にとっては不快感があることが多いですよね。

職場の研修で、アドラー心理学によるコーチングの内容を受講した際、「相手に関心を向けるのではなく、相手の関心に関心を向ける」ということが語られていて、なるほど!と思いました。
相手に関心を向けるは、あくまでも自分の視点や理解の範囲で相手を捉えようとすることです。
自分の理解の枠組みの中に相手を入れて、そこに解釈を加える可能性もあります。

しかし、相手の関心に関心を向けるということは相手の目線で、相手が見ている世界を同じ様に見ようとすることです。

この違い、結構大きいけど実は気が付きにくいなぁと思いました。
わたしたち援助職者はアセスメントをしますが、そのアセスメントをする時、大抵の場合が「相手に関心を向ける」という視点で行なっているのではないかと思います。
そして、実際にそのように現場で教えられているように思います。
そうすると、わたしの理解の枠組み、価値観の中で相手を捉えてしまい、そこに自分なりの解釈を付け加えてしまい、それを「ニーズ」にしてしまう。
それが、たまたま本来のニーズと合致すればいいのですが、そこにズレが生じた時に、大きなお世話的支援が展開されることになってしまいます。

相手をあるがままにみること、あるがままに受け止めること。
バイスティックの7原則にある「受容」ですが、これ本当の意味で理解できている人、というより、実践ができている人少ないのだろうなぁと思います。

相手の関心に関心を向ける、この表現、わたしにとってはとてもしっくりときました。
そして、相手の関心に関心を向けられたら、本当にその人がして欲しいこと、望んでいることに対しての理解が深まるのではないかと思うんです。
それが、善意の押し売りや、小さな親切大きなお世話をしなくなる第一歩かと。

でも、そこで相手が見ている世界を同じようにみるためには、一旦自分の掛けている色眼鏡的なものを取り外す必要があるように思います。
でも、この色眼鏡、目に見えないので、みんな掛けていることそのものに気付きません。
これがまた厄介だなぁと思うんですよね。

新約聖書のマタイの福音書の中に次のような言葉があります

[マタイの福音書 7:1,2,3,4,5]
さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

偽善者って自分が偽善者だってことに気づかないってことですね。
こういう善意って本当に時に悪意よりタチが悪いなぁと思います。

でも、まず大事なことは自分の目から梁を取り除くことですね。
気をつけたいな、と思います。

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