M-1グランプリ過剰考察


周知の通り、M-1グランプリ2024は令和ロマンの二連覇という結果に終わった。


自分はたまたま令和ロマンくるまの「漫才過剰考察」という本を読んでいて、令和ロマンに思い入れを持った上で、M-1を観戦したのだが。


一般人である自分では到底及ばない「漫才」に対する過剰すぎる考察。

正直、2023年の決勝に進出するまで令和ロマンのことはあまり知らなかった。

どちらかと言うと軽めのボケを連発する漫才より、笑い飯のようなぶっ飛んだ設定を好む自分にとって、令和ロマンはそこまでハマらなかった。

ところが上記の「漫才過剰考察」を読んで、高比良くるまに対する認識が変わった。

とにかく圧倒されたのは、彼の漫才に対する熱量。

それはわたしのような素人では知る由もないような、今のM-1グランプリでの勝ち上がる方法や、現在の漫才シーンをこれでもかと言わんばかりに細分化して考察された高比良くるまなりの分析。

そして、これまでの前期、後期も含めた上でのM-1の傾向もすべて分析。

言ってみれば、自分の手のうちをすべて明かすかのような、まるで神への祈りにも近いような「M-1」に対する、高比良くるまの思いがそこにはしたためられていた。


まじで、このレベルの考察は自分には無理。

最近のM-1シーンは準決勝までは、お笑いマニアが大挙押しかけ、皆それぞれの分析なり考察を投稿してるようだが、本物のM-1チャンピオンがそれをやるというのは、素人のそれを軽く凌駕するのは言うまでもなく。

考察なり、分析なり、思いの丈なりをSNSに投稿するのは各自の自由だが、世の中「何を言ったか?」より「誰が言ったか?」で、響く数の多さが変わるという残酷な現実があり、そうした意味ではこの本は、とても大人気ない一冊であるという見方も出来ると思う。

一般人のわたしが思うに、彼がこの本を出した意味はいろいろ考えることが出来る。

もともとは何かの連載をまとめたもので、オファーがあったからやった仕事ではあるのだが、書籍として出版する前にほぼ内容は書き換えられていて、そこに彼なりのメッセージを読み取ることが可能だと思う。

ひとつは、自分の手のうちを明かすことで退路を断つ。

また、霜降り明星のふたりも自身のYouTubeで語っていたが「自分たちが再度M-1に出て、優勝するにはドラマがないと勝てない」と言う言葉。

もともとM-1とは、島田紳助が「K-1グランプリのように漫才を格好良く盛り上げる番組を作りたい」とのことで実現したテレビ番組。

島田紳助は、いつだったか忘れたがフジテレビの27時間テレビのメインパーソナリティを務めた時、笑いもあるんだけど、感動も出来て泣けるという番組にし、「如何にも彼らしいな」と思って、冷めた目で見ていた。

しかし、若手漫才師が有名になるための「きっかけ」として、M-1チャンピオンを目指すという構図は、言ってしまえば甲子園のような若者が持つ特有の熱量なものがあり、若者が頑張ってる姿を見て、感動することは何ひとつおかしなことと思わないので、「お笑い+ドラマ」というものは個人的には相性が良いと感じ、M-1グランプリ初期からほぼリアルタイムで楽しまさせてもらってた。


何故、若手漫才師がM-1という称号に憧れるかというと、それは賞金1000万はもとより、松本人志や島田紳助と言った漫才レジェンドと言われる人たちに認めてもらえること。

実はそこにもM-1を見る楽しさがあったのだと自分は思う。


しかし、M-1は第10回を終えたところでいったん、休止。

これは島田紳助の「10年やって、M-1の準決勝にも残れないようなら芸人の道は諦めた方がいい」という役割を果たした、と紳助が思ったから終わったものだと記憶する。

後継番組として、フジテレビで「THE MANZAI」という新たな賞レースが始まったが、こちらはM-1ほどの盛り上がりは見せず。5年ほどで賞レースではなく、普通の演芸番組へと方向転換した。

そして、後期M-1グランプリというものが始まり、芸歴制限も10年から15年へと引き延ばされた。

その間に島田紳助は反社との繋がりを指摘され、自ら芸能界引退を決意。

M-1というフォーマットを作った紳助不在の形での再スタート。そこには自分の目からは、いわゆる「ドラマ性」は薄まった上でのスタートのように見えた。

また歴代審査員を務めた松本人志が不在だったことも影響してると思う。

「なんだかゆるい番組」

そう思いながら、再スタートしたM-1グランプリを見ていた。

しかし次年度より松本は審査員として復帰。

そのせいもあってか、また番組に緊張感がもたらされ、自分の好きなM-1が戻って来た感はあった。


しかし思い出して欲しいのだが、島田紳助と松本人志の大きな違い。

両者とも現段階では芸能界に居ないことになっているが、かたや紳助は反社との繋がりを指摘されて、「謝罪→謹慎→芸能界復帰」の選択肢もあったはずなのに、自ら引退を決意。

当時の記者会見は突然のことでびっくりしたのを覚えている。

何故、島田紳助が引退を決意したのか?その真相は分からないが、芸能という世界で生きていく辛さからリタイアしたかったという思いもあるが、(松本と比べて)まだ社会性があったからだ、という見方も出来ると思っている。

その後、吉本は「闇営業問題」で世間を騒がしたことから、当時の彼の決意は先見の明はあったのだと思う。

対して松本人志の場合は、裁判を起こすが、結果訴訟を取り下げ。事実上の敗訴とも言えると思うんだが、いまだに記者会見さえもやりたがらない。この背景にどんな心理があるのか、本当のことは分からないが、自分にはある記憶が蘇った。

それはダウンタウンが関西でブレイクするきっかけとなった番組「4時ですよーだ」の最終回。

ダウンタウンの二人は、まだ関西ローカルで活躍してた頃はアイドルのような扱いで、CDを発売し、コンサートで歌を歌っていた。

「4時ですよーだ」の最終回は、ほぼダウンタウンの二人のコンサートを生中継という内容で、その後東京での活躍からは想像も出来ないような、まっすぐなワーキャーの声に応えていた。

その中で、本当に番組のラストシーン。

ダウンタウンふたりの手書きのメッセージが番組のエンドロールと共に流れた。

当時の映像が見当たらなかったので記憶を頼りに書くのだが、浜田雅功は「みんな、ありがとう」的な、まっすぐなコメントを寄せていたのに対して、松本は「いつまでも友だちでいよう」と書いていたように記憶する。

それを見て、自分は「は?」と思った。

番組の終了は、ダウンタウンが東京に進出が大きく影響していたにも関わらず、「いつまでも友だちでいよう」???

だったら、そのまま大阪にいればいいじゃないか。

その時の自分はそう思った。

これは記憶を頼りにして書いているので、いまいち伝わってない気がするが、みんなが関西のスターと思ってた人が東京へ行ってしまう・・その最後の場面で「友だち」とか言われても、なんかシラけるんですけど。

その感触だけは覚えてる。

要するに浜田さんみたいに、あの場では差し障りのない、まっすぐなコメントで良かったと思うのだが、松本のそれは小学校の卒業文集に寄せられたコメントのように見え、「なんか変だなー」という違和感を覚えた。

しかし、松本の才能は東京に進出してから本格的に開花。

ガキの使い、ごっつで、それまでのお笑いシーンとは違う新しい笑いを提供し、文字通り天下を獲った状態となった。

次々と昔の笑いの歴史を塗り替えたダウンタウン松本という人は、お笑いの世界で勝ち抜くという技には物凄く長けていた。

そして、それは「遺書」というエッセイ本の発売で決定付けられる。

それまでお笑い芸人というと、会社勤めもロクに出来ないような社不がなる職業という世間の見方を変え、「芸人って格好良い」としたところまで価値観を大きく変えたのは、間違いなく松本人志だと思う。


現状、松本人志がどんなかたちで表舞台に復帰するのか未定なので、なんとも言えないが、才能と社会の上での立ち回りは別の話。

紳助は、才能もあったし、立ち回りも上手かった。

松本は、ぶっとんだアイディアで世の中の笑いの歴史を塗り替えたが、世間全体が見渡せてたかというと、それはその後のワイドナショーなどで、ちょくちょく指摘されてた失言。その事実から、社会全体が見渡せてたかというと自分は疑問だ。

そもそも芸人に社会性は必要なのか?という視点から話を広げることも可能だが、大きく話が横道に逸れてるので、ここらへんでM-1を象徴する二人についての言及はやめにする。


前回にも書いたが、今年のM-1グランプリは不安な中、始まるんじゃないか?と自分は想像していた。

何故なら大会を作った紳助が漫才をやめるきっかけを作った絶大なる才能の持ち主である松本人志が、今後もどってくる可能性が分からない中での大会。

そんな重たいものを背負わされても、審査員たちには重責だっただろうし、別の言い方をするとM-1とは賞レースでもあり、ひとつの番組でもある。

番組というよりコンテンツと書いた方が伝わり易いかも知れない。

コンテンツは飽きられたら、その寿命は終了となる。


今まで、M-1という大会が妙な緊張感を保ちながら、別の賞レースと差別化され、ハードルの高い番組でい続けられたのは、松本人志の存在が大きかったんじゃないかと自分は思ってる。

その彼がいない中で、松本より年下の審査員ばかりの大会で、どうやって今までのような盛り上がりを作れるのか?という不安は制作サイドにはあったと思う。


M-1グランプリは毎度のことだが、オープニングが長い。

それは紳助が作った「ドラマ+笑い」というコンセプトを引き継ぐなら仕方がない話だと思うが、「今年は松本不在の中でどう盛り上げるんだろう?」と思いながら、番組を見ていたら意外な演出があった。

もう十年以上、芸能の世界には姿をあらわさなかった島田紳助が、手書きでM-1に向けて、メッセージを寄せたのだ。


芸能の世界に嫌気がさし、引退したはずの紳助がまさか番組にメッセージを寄せるなんて。

この予想外の演出に自分の胸は熱くなった。

前期M-1の、立川談志が審査員を務めた頃のM-1の記憶が蘇った。

これをネットでは「紳助、芸能界復帰への布石か?」とするコタツ記事があったが、自分は単純にM-1も20回を迎え、松本不在ということもあり、盛り上げのためにスタッフからのオファーに紳助が応えたというように見えた。

当初は「才能のない芸人を辞めさせる」意味もあって始まったM-1が時代も変わり、いまや芸人といっても絵本を書いたり、YouTubeで収益を上げたり。いろんな形で芸人として生きていくことが可能となった。

そこで紳助自体も考えが変わったのだろう。

「いつまでもM-1が夢の入り口でありますように」

という物言いは、アゴをしゃくらせながら「素敵やん」と言った顔が思い浮かぶ、島田紳助の変わらなさを思い起こし、その演出が今回の大会の結果に繋がったのだと思う。


笑神籤の結果、トップバッターは令和ロマン。

昨年のM-1でも令和ロマンはトップバッター。からの、優勝。

しかも昨年に至っては、リハーサルの段階でも令和ロマンは笑神籤でトップを引いた。

去年の段階でも1/10の1/10だから、1/100の確率でトップになり、そこから優勝という結果を叩き出したのだが、まさかチャンピオンが二年目トップで出場?

これ以上のドラマはないでしょ。

そう思った。


心のなかのどこかで、観客もお笑いも求めているが、ドラマも求めていて。それが「トップバッター、令和ロマン」と読み上げられた時の歓声に繋がったのだと思う。

正直、あんなドラマティックなものを見せられて、もう充分満足してしまった、自分は。


そして登場後、一発目の高比良くるまのひと言にも痺れた。

「もう終わらせましょう」

高比良くるまとしては、まさかトップで出るとは思ってなかったようで「わたしがラスボスだ」などのボケを平場で使うことを考えていたようだが、トップとなるともうそのワードもどうかと思ったそうだ。

そこで出た言葉が「もう終わらせましょう」。

この掴みのひと言もウケたわけだが、この言葉でなんで笑ったのか、よく考えると意味がわからない。

令和ロマンはエゴが強くて、今までなかった二連覇という偉業に挑みに来た、言い換えると自分の枠が空けば、他の芸人がエントリーされたのに「そんなことは関係ない!」とばかりに、自分らが名を成すために出て来た悪党・・として、ふさわしかった言葉だったので、笑ったのか?

おそらくそんな感じだと思うのだが、高比良くるまの本を読むとまったく逆のことが書いてある。

自分らがM-1に立て続けに出場したのは、M-1を盛り上げたかったから。

と、霜降り明星粗品との対談の中で、ずっと真摯に応えている。


M-1とは、いつのまにか競技化してしまい、M-1で勝ち上がるためのセオリーというものが確立してしまった。

四分という決められた短い時間の中で、いかに早く笑いを取るか。

ボケ数を多くし、そのためにテンポを上げ、後半に爆笑できるような流れを作る。

こんなセオリーが芸人でない自分も知ってるくらい、M-1は特化した形の賞レースとなってしまった。

こんな形の漫才が、浅草東洋館でウケるのか?と思うと、ノーだと思う。

じゃあ、東洋館に出てる芸人さんはつまらないのかというと、それも違うと思う。

そもそも漫才って土曜の昼下がりとかにテレビで流れてて、なんとなく見てて、引き込まれて、笑って、そしてなんで笑ったのか覚えてない。

そんなものが今までの漫才だったのに、それをM-1と松本人志が変えてしまったのだ。

果たして、これは正しい形なのか?

本当に腹の底から笑えるものって、こんな緊張感を強いられるようなものだけなのか?

高比良くるまはそこに対しても疑問を持っていた。

だから、分析型である自分が昨年のM-1で優勝するのは「おかしい」と思ったそうだし、シンプルにM-1が好きで、分析して攻略した自分がチャンピオンになるのは、彼が思い描いた理想のM-1とは違うものだったらしいのだ。

だから、一度優勝した自分が立て続けに出場するというボケをかまし、大会が盛り上がればいい。彼の真意はそうだったらしい。

しかし、紳助のメッセージからの、令和ロマンのトップバッター出場、という流れで、松本人志不在の不安はどこへやら?といった具合に、番組は盛り上がった。


その他、ネタの内容がどうこうと言うことも書けるけど、「実はM-1に求められてたのは、笑いとドラマだった」という点で、トップバッターを引いた令和ロマンの優勝はほぼ確定されてたものだと自分は思った。


その後、松井ケムリも言ってたように分析型(高比良くるま)の逆をいくバッテリィズが得点を上回るものの、ファイナルラウンドは素人目から見ても、誰に票を入れれば良いのか分からないほど、三組とも盛り上がりを見せ、審査員たちは本当に悩んだと思う。

しかし結果として、令和ロマンに票が多く入ったのは一回戦でトップバッターを務め、「終わらせましょう」からの、ベテランか!?と思わせるほど落ち着いた漫才をして、松本不在の不安感を瞬時に無くしてくれた今回のM-1の一番の功労者である令和ロマンに票が入った、ということだと自分は解釈した。


しかし、この「終わらせましょう」という言葉はなんてインパクトが強いんだろうと感心する。

準決のときにやった掴みで、たまたまウケたのでそれを使ったという話だが、ここを深読みすると。

まずダークヒーローともとれる、他の芸人のことなんてフル無視でエントリーしたサイコパス芸人が言いそうな言葉として、しっくり来るし、おまけに言葉としてシンプル。

「憧れるのはやめましょう」とか「もうええでしょ」といった最近の流行ったシンプルな言葉とも似たものを感じ、掴みの言葉としては最適だったのかも知れない。

しかし、本当のところではM-1への愛が人一倍強く、分析型の自分が優勝するなんておかしいと自著に書いていたくるまの真意ではないのだと思う。

ところが。


世の中には「加速主義」という考えがあって、これは昔の哲学者が提唱した考えなのだが。

自分の解釈で乱暴に書いてしまうが、「世の中が混迷した場合、一度全部壊してしまった方が再生しやすい」という考えであって、この考えに則るとアメリカ大統領はドナルドトランプのような予想外でハチャメチャなことをする人がなった方が早く世の中は良くなるし、その前に一度邪魔なものは全部潰してしまった方がいいのだ。

誰よりも分析型を忌み嫌う高比良くるまは、M-1愛が強いが上に、自分が好きだったM-1を取り戻すための言葉は。

「もう終わらせましょう」

そうした意味からもこの言葉が最適だったのだと思う。


結果、令和ロマンが優勝した。

トップバッターで二連覇。

こんな記録はもう誰も出せないだろう。

そういう意味で、彼はそれまでの凝り固まった分析型に偏りつつあったM-1をぶち壊したのだ。

だから、M-1を見終えたばかりのニューヨーク嶋左は「M-1はもう終わりでいい」と言ってしまったのだろう。


しかしこれは正確にいうと、加速主義的に考えて、分析型のM-1は今年で終わり。だって、分析型の最高峰とも思える令和ロマンが二連覇を成したのだから。


さて、重要なのは来年からだと思う。

まだまったく分からないが、松本人志が復帰できない限り、M-1は新しい賞レースとしての価値観を求められる。

しばらくは勢いのまま、継続はされるだろうが、レジェンド芸人がお墨付きを与える賞レースであること以外のブランド価値をM-1は今後、求められることになると思う。

では、その価値とはなんなのか?というと、価値とは時代の変遷とともに変わるので、予測が難しいが松本人志のようなレジェンド芸人がこの一年ですぐに現れるかと言ったら、それは現実味がないと思う。あるとするなら、まさかの高比良くるまが審査員席に座るという形なのかも知れないが、それは見てる人もさすがに違和感を覚えると思う。

とりあえず五年ぐらいは、どんな形であれ、商売になるなら、M-1は続くと思う。

しかし、くるまが破壊した分析型漫才賞レースに変わる、且つそれでも同じぐらいに楽しめる番組に出来るか否か。

賞レース時代のTHE MANZAIでの失敗もあることだし、来年以降、M-1は大きな意味で転換期に入らなければならないと自分は考える。

凄くシンプルに言うと

もっと面白いものが見せられるかどうか?


言葉で書くのは簡単だが、笑いとはある程度ロジカルな分析は出来ても、その上をいくものが出るか否かは非常に難しいことだと感じる。

ということで、高比良くるまの活躍のおかげで、今年のM-1は大いに楽しめました。

来年以降が気になるところです。



以上が、イチ素人で、生でお笑いのライブに行くことも少ない、比較的ライトと思われるお笑いユーザーの「過剰考察」でした。



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