明後日はコロナワクチンを注射(小説)前篇
新型コロナウイルスワクチン注射の1回目を来月にひかえた雅江は、2021年7月14日に、ホームヘルパーがケーキを届けてくれて、51歳の誕生日を迎えた。
ヘルパーが帰り、夜になると、編輯者の弟とふたり暮らしの雅江だったが仕事で同席できないという弟ぬきのまま、Lineのヴィデオ通話で友達7人から、誕生日をお祝いしてもらった。
新型コロナウイルスの出現によって、みわたす視界が消毒液とマスクと感染への注意喚起と、新型コロナにまつわる流言と外術と淫祠だらけになった現在を雅江は、「コロナ禍」を袋小路へと追いつめる、華奢な星月夜でできたヴェールで包みこみ、無憂の時間の、築城を愉しんだ。
ワクチン接種の前後にお酒を飲むと、コロナから心身を護る抗体の城壁を築きにくいという話を聞いていたのでトカイワインのつぎに大好きなシャメイのスパークリングアップルジュースを開けた。そのラベルはコロナ禍に屈せず、前進する者たちへの励ましを籠めた瀟洒なエンボス加工の期間限定商品であり、『神曲』の地獄篇最終歌でダンテとヴェルギリウスふたりが地獄からの脱出を成就したことを謳う”E quindi uscimmo a riveder le stelle (そして私達は星月夜をふたたび見いだした )” が、複雑な透かしになって浮かび上がって見えるのだと言い募った。
コロナ禍でイタリア行きを断念してフラストレーションを日夜爆発させている友達が、そのラベルに動揺して無性に欲しがった。彼女はアマチュアのダンテ研究家で、『神曲』関連グッズの蒐集家であり、「誕生日の記念に、俺チャンにプレゼントしなさい」と画面の向こうから騒ぎたてた。みんな笑いがとまらなくなる。
「いまさ、自分の事、何て言った?」
「うちのムスメ氏は最近、スマホでご友人と歓談のときの一人称がそれなのだよ!ダンテ研究には不屈の若い気力と、新しさへの探求心が要求されるのだよ!」
友達はみんな、華麗な刺戟が注入剤になって生み出される形而上の世界の領地に錬金術の壮大な実験室を構える雅江のことばを浴びて、片っ端から酔いしびれていたうえに、アルコールに芯まで悩乱していた。
通話飲み会の翌日、雅江のマンションに友達から、誕生日プレゼントが届いた。
スマートフォンでInstagramをひらくと、友達や弟からプレゼントしてもらった新品のハードカバー本と文庫本を、蒼古なペーパーナイフや髑髏の置物や沈鬱な香水瓶といっしょに綯い交ぜたヨーロッパ的に憂愁な風情の写真を投稿した。ナボコフの短篇集の翻訳本があった。読書好きで朗読が上手なホームヘルパーの声のなかで、短篇の主人公が、光のなかで、生きていることに対する驚愕を感じる場面に出会う。雅江はロシア貴族になって、旧時代風の優雅な礼儀作法を体得した従者たちが蝶の封蠟、蝶の 翅のしぶきに浸されたお仕着せを纏って、雅江を両腕で抱きかかえた一人のあとに残りがチェス駒の横顔で後続し、箱馬車に乗り込むと、ナボコフの作品のなかを、ゆっくりと走った。行き着く先に、劇場を構えるほどの広さと幽霊一家が暮らすほどの古さをそなえた城館が建っているのを夢想し、呪術がもたらす贅沢や、揺り椅子に身を沈めた指輪で満艦飾な老皇女が授けてくれる壮麗な古文書詩歌との出会いの期待にうちふるえながら。
雅江は生まれつき、視野が大きく広がっていくと、読んでいる小説でも観ている映画でも、その世界に入り込んでしまうのだった。
出てこられなくなることもあった。
雅江は読書を終えるとスマートフォンで、次にTwitterをひらいた。雅江が最近Twitterを始めたのは新型コロナウイルスにまつわる情報を交換しあうのが目的だった。じつは弟から、InstagramやFacebookといったSNSならかまわないがTwitterだけは絶対やってはだめだと日ごろから言われていたので弟には内緒で使いはじめたのであるのだが、さきの誕生日祝いに同席していた雅江の友達のなかにはTwitterのヘビーユーザーがいて、その友達はもちろん、その友達の友達おおぜいも優しい気持ちのもちぬしばかりで、ワクチン注射をひかえた雅江をみんなしっかりと励ましてくれた。雅江は病弱で体調が変化しやすく、ワクチン接種によって起こる副反応をことのほか心配していたので、twitterでの励ましに随分と勇気づけられた。
かれらは雅江に、事前に水分をじゅうぶん蓄えてぐっすり眠ることの大切さ、副反応がひきおこすかもしれない発熱への備えのための解熱剤は薬剤師が常駐するドラッグストアで薬剤師とよく話し合ってから買うことなどを助言した。
あのラベルに食いついた「ダンテ研究家」の友達も、やはりtwitterをやっていた。
「ムスメ氏のしわざで、一人称が変わったのだよ!」先々週ごろに投稿されたツイートに、銀行勤めの娘とふたり並んだ画像が貼られていた。娘は模造刀を鞘のまま掴んだ腕が人形のように真っ白く伸び、雅江は全く知らないアニメか漫画のキャラクターの格好をしている。彼女のtwitterも読んでみたら、或る時期から自撮りのテンションの振り幅が増幅している。
「俺チャンは、レイヤーに目覚めたのだよ! コロナ渦(←いや禍、わざわいでしょ。それともわざとうずって書いたのかしら)に戦友として降臨した、漆黒の半仮面(←とうぜん風邪マスクの事よね)との親和性が、クルセイダーの荒ぶる血潮を呼び覚まし(←※この後ずいぶん気持ちの急上昇したツイートが連圏をえがいてるのだが雅江の視線には血糖値が高すぎた)!」友達の "ダンテ研究所" に戻ってみると、娘が母にテンションの橋渡しをしていたことがよくよくわかった。
「早く青い空からイタリアへ翔びたいと言っておるのだよ!!」
「早くワクチンを打ちたいのだよ!!!!」
一行文の後ろには毎回、#俺チャンDiesirae と書かれていた。
#神曲グッズ で検索をかけたらば、目が回ったことは言うまでもない。雅江には、彼女がダンテの独自研究を宣伝するためにtwitterを植民地にしているように見えた。『神曲』関連グッズの、Tシャツやフィギア、時計、帽子、靴べら、仕込み杖のステッキ、手袋、財布、マグカップ、飛び出し絵本や同人ゲームの写真や動画を、6年かけて披露していた。去年投稿された、傘のデザインが地獄界の九層の円圏を細密にえがいている様子を撮った動画のなかには彼女の解説の声も入っていて、ここでもあからさまにエキサイトしている。
「これ見て見てー!カーコやマレブランケ全員がドラギニャッツォとかもぜんぶ具象化しているし、カーコがまじでイケメンだしーーO(≧∇≦)O 」
雅江はひさびさに、腹筋が痛くなるほど笑い転げた。
ツイートはバズっていて、リプライを読むと、日本語以外にも英語やイタリア語のツイートがいくつも寄せられていた。
弟にはいずれtwitterをやってることを打ち明けるつもりでいた。
E quindi uscimmo a riveder le stelleや、#equindiuscimmoarivederlestelle で検索をかけてみると、コロナ禍のイタリアが、ダンテの詩歌で励まし合っている姿に出遭った。
「地獄篇の最後の詩句こそ、わたしたちの希望のメッセージだ。」
「人生の旅の途中で、わたしたちは #COVID19 に出遭った。ただしい道はうしなわれ、いま歩いている道はとてつもなく暗い。#COVID19 、それは思考のなかで恐怖を無限に更新していく。しかしそうであっても、わたしたちは再び星々を見いだすために、きょうも旅に出発するのだ。」
2021年はダンテの歿後700年の節目であり、 月桂冠に赤い頭衣を纏ったダンテが風邪マスクをつけて新型コロナ感染に防衛しているイラストがいくつも出てきた。
3月25日の #dantedi(ダンテの誕生日)に、コロナワクチンを注射してもらうダンテのイラストが投稿されていた。医師はダンテのまえに、三度目の登場を果して現われたベアトリーチェであり、すっかり世慣れた風貌になった、その顔半分をサージカルマスクで覆い、いつまでも青春時代の夢想癖に凝り固まって走りつづける人生に息ぎれぎみの壮年ダンテに、しばしの平安の注入をほどこしていた。
( 実物をお目にかけよう。これがそのツイートだ ↓
https://twitter.com/luigidalise/status/1374970421267869698 )
ワクチン注射の日がせまり、コロナワクチンのキーワードを方位磁針にしてTwitterをさまよっていた雅江の視野を、混濁が飲み込んだ。
「#コロナは真昼の蜃気楼」「#風邪でもないのに風邪マスクは不潔で無粋」「#(英文伊文露文などなど)」といったハッシュタグ・ボキャブラリーの乱立が見えた。twitter内で、コロナワクチン撲滅の旗印がひるがえす人々の領域に踏み込んでしまったのだ。
領界と、その住人たちは、ワクチン接種による流産への不安や月経不順や不妊症に罹るかもしれないという生命本能的な不安からワクチン接種を拒否する人々とはまったくかけ離れた、完全な別世界を築きあげていた。
領界と、その住人たちは、新型コロナの猛威にたいし、ペスト禍などの未曽有の疫病の歴史循環が最後にもたらす世界終局、冷酷な神罰の到来を読み取っていた。抵抗は無益であるどころか、聖断への冒瀆であるのだと。かれらはワクチン注射推進派たち相手に共闘し、twitterだけでなくさまざまなSNSや動画投稿サイトに出現し、うわずった書きっぷりが重々しい武装を纏い、騎馬の馬脚と蹄鉄の砂煙に覆われ、武装蜂起の牙と刃を研いでいた。
雅江は慌てなかった。そういう人々が、日本じゅうや世界じゅうに居ることも知っていたし、学びだと思って、半分は面白みで、闇の奥に踏みいれてみることにした。
心憎いことに、かれらのなかにはモーツァルトのオペラの行進曲を追い風にしている耳利きなクラシック音楽好きもいた。トカイワインの話をしたら気があいそうな人もいる。
ダンテの生涯が闘争の連続だったように、かれらが老いも若きも闘争し、群雄割拠に明け暮れていることを、生暖かな目線で、無邪気に眺めた。
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中篇に続く
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