ヒュドラのチェンバロ【3】 クトゥルフ・バロック、あるいはクトゥルフ・ロココ・ゴシック
ユスポフ家の繁栄を祈願する家訓「右顧左眄することなく、一筋の道を歩め」に、アナトリーは応える。
おっしゃるとおりでございます、わたくしは無尽蔵の電気消費に耽るような楽器を、生涯にわたって拒絶し、原子力発電の全知全能を嘯く、巨大機械への妄信を振り払うことを誓います。
アナトリー・ユスポフ、二重姓の「シェレメーチェフ=ユスポフ」が正式な苗字なのだが、アナトリーはシェレメーチェフ伯爵家よりも、ユスポフ公爵家の歴史と家系に、自身の心の故郷を見定めている。
アナトリーはヒュドラのチェンバロを譲り受けた日の夜の、楽器との初めての対話の記憶へと想いを委ねる。
アナトリー「ヒュドラは言った。及公には弟がいる。弟は一切のチェンバロ装飾を剥ぎ取り鍵盤が1段だけのやり過ぎなほど簡素な外観を四つ足のうえに築きあげたと。一脚だけ、双頭の鷲の浮き彫りが施されているのが唯一の装飾だった。パーヴェルは及公には見向きせず、弟と音楽に耽っていた」
アナトリー「ヒュドラは言った、ガッチナ宮殿の築城のぬしであるオルロフ伯爵がエカテリーナの夜伽を愉しむためにつくりあげた、桁外れに淫猥な区画の最もエロチックな部屋に及公たち兄弟は置かれていたと。
その秘密の楼閣は、エカテリーナ2世の御代の典雅さやパーヴェル1世の時代の妄想機械主義とは正反対の、途方もなく淫らな意匠を存分に凝らした男淫魔と女淫魔が守護する住居であり、人間的すぎる人間性を発する濃い霧の匂いに覆われていた。家具、椅子やテーブルには、陽物の意匠が氾濫し、壁面は古今東西の博識を駆使したエロティックな表現美術で隈なく覆われ、ポンペイの壁画や彫刻も顔負けの工藝品の数々にはキリスト教以前の愛欲様式の粋が鏤められた。
アナトリー「パーヴェルは皇太子の頃、ガッチナ宮殿に足を踏み入れるや否や、脅迫的にけばけばしい煽情性の刺戟に苦痛の嘔吐を催したのである。あらたな皇帝の椅子と冠の持ち主によって、箍がはずれた太陽崇拝にうつつを抜かしていたガッチナ宮殿は根本から変貌し尽くしたかにみえた。
しかしながらパーヴェルは淫靡を極める楼閣には一切の手をくわえなかったのだ。何故だろうか。
アナトリー「例え話を挙げてみよう、ゲーテの『ファウスト』だ。
メフィストフェレスが禍々しい諧謔を披露すればするほど、ファウストと物語そのものの古典的端正さとが調和ゆたかに瑞々しく引き立つに違いないのだとゲーテが望んだこととパーヴェルが望んだことは同じだったのかもしれないのだ。
だがゲーテの思惑は実らなかった。『ファウスト』の読者は皆、メフィストフェレスが繰り広げる唯一無二の諧謔にこそ『ファウスト』の真の魅力をあじわうのであり、あのドイツ大雄渾長篇詩を満腹読了したそのあと、ファウストではなく、メフィストフェレスを通じて唯一無二の感銘を嚙み締めつづけるのである。秘蜜の楼閣はメフィストフェレスと同じく、引き立てられた恩を仇で返した。時計仕掛けの韻文詩のように精巧な狂気と粗暴な正気との行き来に釣り合いの調和を築きあげる巨大な天秤になることを拒否しただけでなく、パーヴェルを、弑逆の刑場へと連れて行ったのだ」
1801年3月の宮廷クー・デ・タが起こる直前、ペルシア王国のロシア大使は厳格な宮廷儀式に明け暮れて酔眼朦朧の日々をおくる王に宛てて、文書を送った。王のお気に入りの宮廷詩人が、大使の文書をパントマイムに作り替えると立体のペルシア絵巻物を見るような幻覚劇を王の玉座の間に躍動させた。立体絵巻のなかで、第三のローマを称するロシアでは19世紀にもなりながら古代ローマの公開屠殺場が古色蒼然たる龍の口をひろげ、皇帝パーヴェル1世がネロやカリギュラを気取って龍に餌を放り込んでいる様子がえがかれた。
絵巻は誇張されていたが嘘を伝えたのではない。
パーヴェルはやること成す事の総てが伝奇文藝の奇ッ怪さに染まっていった。外交に際し時折見せつける目覚ましい手腕にもあからさまな翳の深さが立ち込め、宮殿玉座にすわりこむと、秩序と厳格に対し、みずからを最高の位の奴隷身分なのだと妄信し、厳格な官憲の制服を着た神に血まみれの供物を捧げて止まなかった。
生き神は食事をすることに心身が汚れる心地をもよおし最大級の迷宮的苦痛を感じるようになった。清涼な空気のように威厳ある食べ物は無いかと冀った。或る料理人を元帥府に列すると、7万の兵士を与えるのでシャンバラを征服するように、ヒュドラの鷲のすがたで命じた。
” シャンバラの果樹園で鈴生りに実をつけるという、桁外れの芳香と緻密さと品格ある柔らかさが聖霊そのもののみずみずしい現実をあたえてくれる果実を、一つ残らず刈り取って、ネクタルにするのだ。シャンバラの場所? 地球上のどこかだ。自力で探せ。 ”
パーヴェル1世は新興宗教の教祖であり同時に神そのものになりおおせ、ヒュドラのチェンバロの弟から、妙 玄な響きの極彩色で築きあげた楽曲を奏で、廉潔な列柱廊が走るエーテル界を、馬術と舞踏で果てもなく彷徨い続けた。
ヒュドラのチェンバロの弟を溺愛するパーヴェル1世の首を、アッザートフにささげる機会をうかがって、禍々しい楽器のすがたを取った邪神ヒュドラは、3段からなるチェンバロ鍵盤一面に呪文を浮かべて、渦巻銀河をおもわせる目の群れが、熱っぽく値踏みしていた。
ヒュドラのチェンバロはクー・デ・タの主役を演じた。生き神のヒュドラの眼前に、もうひとりのヒュドラが本性をあらわしたのだ。
雪に覆われた庭園に足を踏みしめた、ヒュドラのチェンバロの音色が、みぶるいせずにおられないほどの残忍と怒りとを移調3段鍵盤で奔流させた。
3月にもかかわらず、白 夜がサンクトペテルブルクの運河の鮮血色を薄明りで照らし、天空には極 光が、妖しく翳り明滅する宇宙のうねりを躍らせた。
奏でるのは、ヒュドラのチェンバロの楽器職人ふたりの男の連弾である。
鍵盤の両わきには、中世のリュートを演奏する歌う放浪楽士の彫刻が暗黒古代的に聳立していた。
チェンバロの周囲に、叛 乱がフランス趣味の二角軍帽と拍車沓と人斬り包丁の、円陣を築いた。
パーヴェル1世は、善美に織られながら城主の残虐によって血染め血まみれになった綴れ織りにおおわれたガッチナ宮殿の奥深くから(※)臓腑をえぐるようにひきずりだされ、チェンバロへと引っ立てられた。
パーヴェルのチェンバロ教師ヴィンチェンツォ・マンフレディーニの曲が憂愁をえがいて鳴り響くヒュドラ・チェンバロの蓋がひろげられると、ヒュドラ・パーヴェルは牢に閉じ込める罪人扱いで蓋の中へと投げ込まれた。
一体これから何が始まろうとしているのか。
註、蛇足:
(※) ちゃんとわかってる、ボケてるだけだ。
史実ではパーヴェル1世が弑逆されたのは、ガッチナ宮殿ではなく、ミハイロフスキー宮殿。
この物語はあからさまな伝奇フィクションなので真に受ける読み手はいらっしゃらないだろうと思うけど。
あとそれからこの小説の作者はエレキ楽器を否定していないんで、念のため。
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