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【備忘録】NPT再検討会議はガス抜きの場

 コロナ禍で延期されていた核拡散防止条約(NPT)再検討会議がようやく開かれ、事前の予想通り最終文書を採択できず決裂、という結果に終わった。再検討会議に「核不拡散、核軍縮、核の平和利用」という建前論を再確認する以上の意義を見いだしていないので、決裂しようがどうしようが実際の核軍縮や核政策にあまり影響はないと思っている。

 NHKは再検討会議について「重要な会議で、日本でも大きく報道されました」なんて紹介してたが、管見の限りでは、決裂を速報した欧米メディアはなし。

 つまり「日本でのみ大きく報道されました」が正しい。むしろさも重大だと騒ぐ方に違和感を覚えるという、「それを言っちゃあおしまい」的な所感です。

 そもそもNPTは米英仏ロ中以外の国に核を持たせないことが最大の目的であって、「不平等条約」という評価はまったくその通り。裏を返せば、NPTは米英仏ロ中の核保有国のいずれかが気にくわない国家の核兵器開発・保有を禁じる法的根拠となる。

 北朝鮮とイランの核開発を例に取ってみるとこのことは明らかで、例えば国連安保理が採択した初の対北朝鮮制裁決議である決議1718(2006年)や、イランに対する初の制裁決議1737(同)は、いずれもNPTに言及している。

 非核保有国にとっては、NPT加盟とは「将来にわたって核開発・核保有は行いません」という契約書にサインするようなもの。実際、日本の国会では1970年代半ばの批准に際し、「NPT加盟後に日米安保条約が解消されたら、米国の核の傘を失った日本は丸裸になる」と懸念する声が自民党内で上がり、政府が日米安保体制の強化に動く一つの契機になったという経緯がある。

 再検討会議は、この不平等条約たるNPTの規定が順守されるよう、条約の運用について再検討する5年ごとの会議。といっても条約の改定を議論する場ではなく、その結果である「最終文書」にも法的拘束力はないと見なして良い。最終文書の中身は、言ってみれば政治宣言にとどまる。

 だから最終文書に書かれたことがその通り実現しないのは当たり前だ。

 10年の再検討会議で採択された最終文書が、「すべての核保有国は包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准を約束する」とうたっても、米国や中国は一向に批准しないまま。また、中東非核地帯創設という目標を掲げても、米国の推しであるNPT未署名の事実上の核保有国イスラエルが、核放棄することなど現時点で考えられない。

 結局、再検討会議って、不平等条約に憤る非保有国の不満のガス抜きにしかならんのじゃないか、という疑問が消えない。

 そもそも核軍縮はともかく、核廃絶をめぐる国際的議論には、違和感があるんよね。米国の核の傘に依存する日本が廃絶、廃絶と訴えるのは偽善だという批判は前からあるが、それとは別の次元で。

 その違和感を一番感じたのが、17年のノーベル平和賞。この年の平和賞は、「核兵器使用がもたらす破滅的な人道的結果に注目を集める取り組みと核兵器禁止条約の採択に向けた画期的努力」を評価して、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)に贈られたが、「核の惨禍を記憶する上で本当に重要な人たちを忘れてませんか?」と鼻白んだものだ。

 もちろん、広島・長崎の被爆者のことである。被爆地から上記の疑問を呈する声が上がったと聞いたことはないものの、個人的には大いに不思議に思った。というより、偽善を感じた。

 被爆者のサーロー節子さんがICANメンバーで、ICANを代表して受賞スピーチを行ったことでも、この失望感はあまり鎮まらなかったな。ICANの受賞はいいが、それなら被爆者にも同時に贈るべきでしょう。

 ノーベル平和賞については他にもいろいろあるのでこれ以上は控えるが、要するに言いたいのは、核兵器をめぐる議論では建前論ばかり先行してるなあ、ということです。

 まあそれでも、あらゆる問題で建前は重要なので、それ自体の存在意義は認めるべきでしょうが。

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