ЗЕРКАΛО(鏡)熱いうちに。

こんばんは、釘です。
 タルコフスキーの映画を見ようの一か月の最後は彼の自伝的な映像作品で締めたいと思います。
(作品自体はまだ4作ありますが、それはまた別の機会。)

作品情報

公開日 :1974年(ソヴィエト連邦)
     106分の映画

作品紹介:記憶の断片、イメージの破片
     アンドレイ・タルコフスキー、幼少期を描く自伝的作品
     
     父の不在、少年時代。降り続く雨の日に髪を洗い続ける母親。
     母親に似た妻への愛と別離。息子と自分。
     様々な記憶の破片が交錯する。
     心象を映し出すかのような詩的な感覚にあふれた映像は、
     見る者を魅了し圧倒する。

※これらの情報はパッケージより引用

所感

 この作品のテーマは「時空を超える記憶と血」
 幼少期の自伝として伝わってきたものは「父と母とそこにある場の回帰」
 僕はそんな風に感じた。

見る前のイメージ
 考えていたのは、母の愛と妻の愛と、愛する人に向けられる目と、様々な物に向けらえる儀式的な行為。これらをどのように映像的に落とし込むのか、映像における「詩的」とは何だろう。といった所。
 彼の作品のモチーフは繰り返される。

 タルコフスキーの映画を見始めて考えているのはその場、映像で表現する場についてだ。僕は長らく自分勝手な言葉を並べて、文字で表現することの隔たりの大きさと不確実性は、そこに場が生まれず、個人の中から生成されるものだからだと考えている。
 それだから文字を、文章を、言葉を愛する僕らには詩が必要だ。
 映像や音楽は言葉による隔たりが場によって、作者と繋がれる。

 人間は記憶をか細い感情と時間で紐づけているが、断片的にしか持たない。記憶には緩やかな間隔があり、それらが私達が老いていく慰めと消えつつある不死性を思い出させてくれる。
 果たしてこの作品はどんな感覚を抱かせてくれるのだろうか。
 そんなことを思っていました。

見て感じたこと
 父や私はあくまで俯瞰する。
 
記憶の断片が紐づいていくのは、血と自然、それらが保持してきた歴史だった。繰り返されるモチーフは水没、焼け落ちる家、泥と流れ。宗教に求める美しさ。
 これまで彼の映画を見てきて、何となくこれらのモチーフには生命を感じる。泥を踏みしめる音や流体の動きは僕らの中にある。子供に銃の訓練をしていた教官が、ダミーの手りゅう弾が投擲された時に身を挺して守ろうとした時に、鼓動を感じた。
 戦争の後の子供たちは繋がっている。泥の中で兵器を運ぶ兵士たちと、雪の上で遊ぶ子供たちが詩の朗読の最中に切り替わっていくところや、母と妻との混同。
 これらが示しているのは、時間と空間の不連続性。離散的で、同じ場に有って、人と時間には隔たりがあること。

僧侶のごとき死の脅し
私は運命を鞍に結び 少年のように腰を浮かせ 未来と駆ける
幾世紀も我が血を流す 不死とは そのためか
常に暖かく確かな一隅 命に代えても守りたい
飛んでくる矢が糸となり
光に導かぬのなら
※作中より引用

 彼により、父の詩の朗読が5回入る。そこにある愛と宗教観。父から受け継がれたものと、繰り返される母の愛、甘え。妻と混同していくのは、哀れみからではなくて、私たちが知らず知らずに求めてしまう「不死性」があるからだ。
 スペインの陽気な音楽と爆撃から始まる戦時の不安な人々は、子と親の分断が感じられ、それらの不釣り内な世界を宗教画により信仰のイメージに統合する。
 それらが少年イグナートが見た母の幻で、ロシアのキリスト観をプーシキンの手紙の引用から呼び起こす。
 断片が紐づくのは血か、自然か、歴史か。
 それらは朽ちたもの、湿ったものに対する意識に紐づく。母も妻も拒絶はしていない。彼の幼さは強く握られて弱った小鳥のようだった。
 作中で語られる書くことの本質は「魂の糧で、偶像崇拝のエサじゃない」これは詩に必要な資質とも思うけれど、それが商業の皮を被ってしまえばなんと言おうがそれらは人の本質からも外れる。崇拝の為、生活の為、人が作ったシステムの中で形にするものではない。
 そこからどれだけ距離を置いて制作できるかだと僕は思う。

子よ 走れ
エウリディケを嘆くな
棒で銅の輪を 己の世界を追え
かすかにでも
一歩一歩の歩みに
陽気に 無情に
大地がざわめく限り

 子供に己の世界を望み、良心や記憶が彼を寝たきりにする。
 全ては上手くいく。チックの青年が「僕は話せます」とテレビの中で繰り返したように、美人と転ぶのは楽しいと笑う医者も、上手くいった。
 様々な場にあるものが、幼くして距離を持った父の詩によって、母や妻との距離が面影によって、記憶に紐づき「私」を形作る。
 人は巡っていくので、これまでもこれからも、上手くいくんだ。

雑記

 パッケージに封入されていた解説文は四方田犬彦さんという方だった。
 最初に「鏡を観終えたばかりの者は、その内容を誰かに語ろうとする。だが、上手く説明できない」と書いてあって、確かに普通のやり方では説明がつかない映画だなと僕も感じていた。だから最初に、この作品のテーマは、なんて無理やりまとまりのない思考を侍らせて、今の理解をアウトプットしてみる。
 映画というよりは、映像作品に近いものだ。そんな風に思う。そこに物語性はなく、断片が詩篇で繋がれている。
 「これまでの映画体験など、何の役にも立たない」
 違ったコードで読み解かないといけない。そんな言葉を見て、僕には様々な作品を理解する為のコードを持てるのか、分からない。

何度も見なければいけない。
 この映画の鏡に対しての意識、火、水、大気、土の神秘的創造、これらの延長は他の作品にも見ることが出来るし、これらを持つモチーフが場を形成している。そしてそれは振動する。
 鏡に対する目つきや、その回答の不可能性と割れたことに対する考えはあまり僕は気にしていなかった。それは写すもので、記憶で、血に繋がる。そんな単純な考えしか持っていないからだ。
 欠乏による神秘性は苦しみの最中に幸福と希望が見いだされることにも繋がっている。これは妻から消えてしまったものだ。喪失した時間への探求が20世紀なら、21世紀はどこへ探求をすべきだろうか。
 四代元素や鏡に対する意識、様々な対比、もう少し様々な意識を持って、見ればまた発見がありそうだ。

 こういう作品は歳を経て観なおしてもまた違ったものが得られる。
 だからこそ、1974年と既に50年近く経過したとしても、映像を通して過去の映像資料と化してはいないのだろう。

 一度、タルコフスキー映画の感想期間はこれでおしまいです。
 これまで見てきたものも、また時間を置いてみれば違った視点が得られるだろうし、人に潜む本質的なものを考え、感じるのによい作品だと思う。

それでは

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釘
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