命を削ってでもしたいこと
仕事が徐々に繁忙期に入ってきて、残業はしていないものの、子供を寝かしつける頃には、すっかり疲れて切っている最近の私です。
「疲れた疲れたー!」(私)
「なら早く寝なさい」(夫)
「やりたいこといっぱいあるのにー!自分の時間ほしいじゃん!」(私)
「そこは、命削るか、自分の時間削るかしかないんだから」(夫)
と言われ、妙に納得してしまったさっき。
自分の時間を削ることも、命削ることも極力したくないけれど、やはり時間は限られているから、効率的に、でも大切なことには深く時間を使いたい。
私が命を削ってでもしたいことは何か。
それは、自分のアウトプット(あわよくば作品)を通じて、視野の外の世界を見せること、気づいていない世界の存在を知らせること、気づきを与えること、自身との対話の材料になること、そんな手助けが出来たらなと最近思います。
大抵の人は毎日の繰り返し、勝手知ったる人たちとの生活や仕事、同じ文化の人との会話、近い価値観の人との暮らし。
でも、大きな壁や挫折や悩みの解決方法は、その中ではなかなか見つけられない。見つけにくい。狭い視野や今ある世界では、いつまでもぐるぐるしてしまいがち。そんな時は対極にある世界や価値観、大きな理屈では測れない自然を前に考えるほうがヒントになる。と私は思います。
これからの悩み多き時代には、そんなヒントが必要で、その悩みの視界から出るきっかけになるひらめきや考え思考のヒントを提供出来たら、いいなと思います。
完璧な世界はない。あったらそこは天国。でも、「自分が納得できる」自分好みの世界を作ることは可能なのではないかと。そのためには、目に見えない多くのプレッシャーや既存の考えを取っ払い、自分の追い求める世界を構築することに時間を使おう。人間の幸せは、何年生きたかではなく、どう生きたかなのではないか。と聞いたことがある。
そして、「人生、自分の欲を満たすだけが道ではない」
人を愛し、他人のために生きればよいのだ。昔、私は「人の役にたちたい」という人を、マリア様じゃあるまいし、まずは自分に責任をもって自分をまず幸せにしなさいよと思っていた。一人一人が自分に責任をもって人生を生きるべきだと思っていたし、自分ありの他人だと思っていた。でも今は、前述の人のほうが人に与える余裕があったのかなと思ったりする。
人を愛するとか、人の欠点ごと丸ごと受け入れるとか、自分より大切な人とか、色々な表現があるけれど、要は人を愛するということ、それこそ人生に大切な最も重要なことなのではないか。
だから、自分が満足出来たら、次の目標!や欲望!を探すというエネルギーではなく、幸せな自分を受けいれ、人にそれをシェアしていくことこそが社会に貢献していくことなのかと思います。
結論、人を愛し人に感動や気づきを与える努力を、命削ってでもしていきたい!
おあとがよろしいようで。