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美の基準にがっかりなんてしない。本当に美しいものを知っているから。

昔、自分の容姿を憎んでいたことがあった。

日本には、
「チビ」「デブ」「ブス」「ハゲ」など本当にたくさんの
人の容姿を蔑む言葉がある。
誰も喜ばないし、得しないのに。

唯一喜ぶ人がいるとしたら、こういう言葉で人の劣等感を煽り、
大量に商品を買わせる人たちだろうか。

メディアによって作られた「美の基準」が一つの正解のような気がして、
自分と、その正解の間には大きな差があるように思えて。

あんな風にパッチリな目をしていない自分はだめ、
あんな風にスタイルが良くない自分はだめ、
あんな風に肌が透き通るように美しくない自分はダメ。
自分自身でさえそう思っているところに、
まだ幼く、人の痛みがわからない男子生徒が
笑いながら心無いない言葉をかける。
ブス、チビ、と。

そんな私も、やっと自分を愛せるようになった。
それは、国際色豊かなキャンパスで少しずつ、単一の「当たり前」を壊していったから。
そこには本当の意味で「美しい人」がたくさんいたの。
国籍も育った環境も違うけれど、確かに「美しい人」には国も生まれも関係なかった。

一年中大好きな着物を着て幸せそうにキャンパスを歩く人。
金髪で身体中にピアスをしてるけど、話せばとても明るくて優しい人。
自分の感性を愛して、それを歌にのせる人。
相手のために言いにくいことも伝えて、相手もそれを受け止めて
その積み重ねの上に信頼関係を作っていける人。
自分の美しいと思うものを美しいと言える人、
当たり前という言葉さえ知らないんじゃないかっていうぶっ飛んだ人。


そういう人の目は本当に美しくて、偽りがなくて、
澄んでいて、どこまでもまっすぐだった。

それ以来、うわべだけの美しさには惹かれなくなった。
なんか、大丈夫かもしれないって思った。
どんな容姿で生まれても誰だって真の意味で、美しくなれるんだって。


上京した東京の街には、
おしゃれな服を着こなして、ブランドバッグを持って、
ばっちりメイクと流行のヘアカラー、それはそれは綺麗な女の子たちで溢れてた。
メディアには、男子にモテるメイクとか男子にモテるファッションとか、
そんなのばっかりだった。

こういう情報に囲まれるの、すごく苦しかった。
やっぱり何か違うと思った。


だって人は容姿も性格もみんな違うじゃない。
どれが正しいとか、正しくない、とかそういうのはないんじゃないかな。
どうしてみんな素敵な個性を持っているのに、単一の基準に押し込められるのだろう。


自分を磨くのは他の誰かになるためではない。
自分のもつ特徴を最大限輝かせるため。自分の内面と向き合って、
コンプレックスさえも受け止めることができるようになるため。
そして自分の人生を生きる勇気をもつため。

誰かに認められるためでも、
賞賛されるためでもない。


私だって社会的な基準で見たら、決して美しくも可愛くもないのかもしれない。
けれども、自分を愛していたい。
生まれ持った私の特徴を愛していたい。

自分大好き、自分可愛い!でいいじゃない!