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海 6
「この近くに喫茶店はありますか」
迎えに来てくれた役所の男性に尋ねると、しばらく沈黙したあと海の側にある小さな喫茶店を紹介してくれ、その場所まで連れて行ってもらうことになった。
店に着くと、お礼と別れの挨拶を交わし、車から降りて男性が去るのをしばらく眺めていた。
辺りは潮風に包まれ、静かだ。海水浴場とも離れているせいか、歩いている人も地元の人なのだろうという感じで、年齢層も高いような印象を受ける。
店のドアの上の方でカタカタと音が鳴る。『海』という文字の彫られた四角い小さな木の板が風を受けて揺れていた。
どうやら、この喫茶店の名前は『海』と言うらしい。
中に入るとテーブル席が二つと、海を眺めることができる窓辺に、備え付けのカウンターテーブルと椅子が、二つ並んでいた。
客は私以外、誰もいなかった。音楽もテレビの音も何もしない喫茶店では波の音が心地よいBGMとなって、耳に響いた。
新聞を読みながら奥の方に静かに座っていた、店主であろう男性がコップを持って、私の方にやって来る。
優しい印象のその人は、私の顔を見ると柔らかい笑顔を見せてくれ、私はその顔に何故だか安心して少しだけ涙ぐんでしまう。
それに気付かれたのかどうかは分からないが、男性はこう言った。
「コーヒーとチーズケーキしかないんだけど、チーズケーキは世界一うまいと思うよ」
カタカタと看板の音が鳴る。
「そのチーズケーキください」
男性は白い歯を少し見せると、店の奥に戻っていった。
私は海を眺めながら、チーズケーキが運ばれてくるのを待つ。
少し前までいた景色とは全く違うのに、ずっと前からここにいたような感覚になった。
「はい、どうぞ」
今、テーブルの上にある、ひんやりと冷えたチーズケーキとコーヒーを彼女も味わったことがあるのだろうか。 そう思わずにはいられないほどの、ある種の懐かしさをこの場所、『海』に感じたのは何故なのだろうか。
私は一口、また一口とチーズケーキを口に運びながら、そんなことを思った。