見出し画像

差別とナショナリズムの間で2〜これは差別だろうか?

私がこのことを書いた理由の一つに、先日の高校野球のことがある。

韓国語の歌詞の校歌が波紋を呼んだ
ある議員は歌詞の内容に苦言を言ったが、
私はそのことよりも、韓国語の校歌を日本国内で国内校のみの大会で歌ったことの方が気になる。

トンへだとか、なんとか、日本の「日出ずる国」みたいなことは、置いといて
(そんなん、お互いやってますがな)

全てを韓流好きだからと片付けるわけにはいかない

他人様のコメントを用いて悪いのだが、
日本の国技に外国の方がいるのでいいのではないか?というのは、違うのではないかと思う

外国のお相撲さんは、日本で活動するにあたって、日本のしきたりや言語を受け入れ、学び、その競技を行なっており、日本の文化を尊重しているのである。

ハワイの方や、モンゴルの方が多いように思うが…

もし、モンゴルのお相撲さんがモンゴル相撲はこうだから、こう変えてくれと言って、それが通ったら、日本の国技はどうなるのだろう?

それを拒否したら、差別だというのでしょうか?

現に柔道などは、欧米のグローバリズム?ご都合?によって、体を無くしてしまった。

言語の話に戻ると、多様化という名の元なのに、英語に言語を統一しようなどと、息巻くものもいる。
多様化なのに、統一?????
そうなったら、どうする?????
そういうところから、グローバリズムは小さな穴を開け、侵入してくるのです。

なので、国内の国際大会に外国語の校歌を歌って、トンヘと歌っているとか、批判するのは差別だというのは、私もその通りだと思う。

だが、前述にも書いた通り、国内の国内校の話である。

これは、おかしいと言ってもいいのではないかと思う。
日本語という文化を軽んじたと考えてもおかしくはない。

校歌を重んじるなら、高校野球連盟に加入するのを諦めるべきなのでは?
高校野球での晴れ舞台を重きに置くのなら、日本由来の高校に進学すべきなのでは?と思う。

海外の日本のインターナショナルスクールにも私は同じこと言うだろう。
その国の大会を目指すなら、地元のハイスクールに入ればいい。
(難しいかもしれないが…)

私たちはこう言う立場なんだから、全てを認めてくれは違うのではないかと思う。
子どもでも、高校となれば、自分の進路を自身で決めるべきだと思う。

ここで言っておくが、私は韓国語のバラード、ロックしか聴かない。
韓国の曲調、言語の耳触り、音程の安定感が好きだからである。
これは個人の思想の自由であると思う。

なぜ、日本の歌はあんまりいいと思ったことがないかというと、
音程が不安定なのに「上手い!」と、印象操作することに、相当な嗚咽感を感じるからである。

こんな考え方は、おかしいかな?と、相談した中で、英語ならどうだった?という疑問がある。
私も音楽を嗜んでいる手前、拝欧米音楽家が多いので、その疑問を呈するのもわかる。

私は、悲しいかな嬉しいかな、英語の耳触りが嫌いで、あまり歌わないが、JAZZを歌うときでも、いい歌詞があれば、なるべく日本語で歌う。
嫌いなものは、苦手だし、好きなのはバラード曲なので、歌詞の意味をつかめない…

一曲ほど、歌うが、英語の発音など気にしない、和訳を頭の中で思い浮かべて歌う

ま、そんなことは置いておいて、
英語であろうと、中国語であろうと、答えは同じである。

今、グローバリズムが静かにを通り越し、音を立てて日本を覆う尽くそうとしている時に、
そのような日本の少しのやさしさ、外面の良さは、毒となりつつある

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?