この街は静かな街になろうとしているのかもしれない。
自治会という社会の機能をもとに自分なりの考えを整理してまとめました。
まえがき
3年前の自分のための記録用テキスト内容をFacebookにて自分だけの公開にしてましたが、全体公開に変えシェアしましたが、付け加えたいことがあったので修正版をこちらに。
※3年前の話なので現在と相違はあると思います。
アホみたいに長いのですがお手隙の時にでもお読みくださればと。今まさに読んでほしい内容です。
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歴史と仕組み
私が暮らす場所の自治会ができて30年ほどです。
わたしは今、自治会役員をやっています。自らやってるわけではなく、ほぼ、回ってきたような状態です。
わたしの住む場所はマンションで、この辺りでも割と大きな塊のマンションで、世帯数もそれなりにいます。ですので、マンション単位で自治会が運営されています。
自治会費用は市に申請し、イベントなどの実施費用としていただける補助金と各世帯から徴収される自治会費用で賄われています。
役員の任期は2年。約20名ほどで運営されています。
わたしが所属する自治会には様々な役割があります。ざっくり以下のような役割が決められます。
会長、副会長、広報、配布、書記、会計、防災、人権、防犯、青少年育成、フラワー、監査などです。
これ以外に、自治会内のイベント、地域全体イベント、敬老関連、学校行事関連など、ざっと年間15程度のイベントの役割分担が行われます。
自治会内のイベントは自治会費内で賄われます。お年寄り世帯や転居者含め交流を深めるために設置されたイベントが毎年企画されて実施されます。
街路樹の根本に植えられる花やプランターを自治会で設置し、その花の世話や水やりなども役割として回ってきます。
ある出来事
わたしが自治会役員になってから市からの助成がなくなってしまったものがあります。花関連です。市の施作で一人一花運動というものがはじまり、それと同時期にして、自治会の方に配られてきた自治会で自主的に花を育ててきていたものに関しては、助成がなくなってしまいした。分配方法が変わったというのが大きな理由ですが、今まで街で維持し続けた花たちとは別に、別の花が植えられました。
自治会で植えてる花の意味は、その自治会が機能してるかどうかのバロメーターになるという住民の皆さんの意見でした。とはいえ、街路樹や自治会とは別に、マンションの管理組合側で管理している花もあり、植物育成に至っては、最初に花を植えることになった人たちの想いはすでにここにはないなというのが現状です。
いまは皆忙しい中で、役員は花に暑い日も寒い日も水やり当番をし、お花担当役員さんは花の植え替えなども行わなければなりません。
植物は植え替えを行った時というのはどうしても弱るそうです。そのタイミングで、普段はかからない病気になってしまったりするそうなんですが、素人でやってる管理ですからそんなことわかるわけがありません。花が枯れれば近所の人から苦情がくるなど、ボランティアの域を超え、相当の負担が強いられてしまう結果となってることもあります。
たかがその辺に植えられた花と、みな当事者ではない人たちは、見向きもしない花壇。だけど、自治会にとってはわざわざ予算を取り、管理をし、植え替えをしたり、維持をする仕組みがあるのが事実です。
いろんな状況があるにせよ、今日の会議で、ストレスだし、負担かかるし、コストかかるから、撤廃したらどうかという話でした。
お花担当の役員さんの自宅には、市から直接、花を植えよう、花壇の管理します、でも、自治会でお金払ってね。と、それってどうなってるの?って連絡が営業なみに来るそうです。
行政が営業かけてくる時代…。コストはこれ以上かけられない。となると、もう、花なんか維持管理できないねって話になりました。
まだ結論は出ていませんが、このままいくと、たぶん、30年続いた花の維持管理は縮小、もしくは、消えていくことでしょう。
誰のためのもの?
誰のための?ってなると、本来自分たちのものであったもの、自治という、素晴らしい機能の一つであったはずの花の維持管理。それが消えてしまうということにいたり、わたしもちゃんとした答えを出せないまま、モヤモヤとして、会議を終えてきました。
ある人は、コストはかかるが、全廃というのは、また新しく始めたくてもできなくなるので、全廃しないでほしい。という。
またある人は、コストかかってる以上にストレスもかかってる。それなら、無くしてもいいんじゃないか。と。
またある人は、なくす前に、できた意味をみんなで共有して、その上でアンケートを取るなどして、住民の意見を聞こうではないか。という。
これらのことが、ボランティアで行なわれている事実。なおかつ、少子高齢化で、わたしの自治会では役員のお仕事を担う人たちってのは9割女性です。子育て中のお母さんが中心となっています。
仕事しながら子育てする人、介護しながら子育てしながら、学校の役員さんもやってるスーパーママさんたち、とにかくいろんな事情の方々が集まってやってる自治会です。
今年の会長さんが「自治会は任意なので」とおっしゃられていました。だから、強制もできない。と。
それはそれでいいと思います。
しかし、自治がなくなるということは、どんどん戸ごとに、孤立してくことにならないのかな?と感じます。
私が所属する自治会では、毎年防災訓練もきちんとやっています。この地域はとにかく高齢者が多く、そのあたりの話も盛んに進められています。
役割として回ってきたボランティアとしても、きっちりみなさんが役割と責任を全うしています。
ボランティアってなんだろう?
任意とはなんだろう。自治ってのは底に住む人たちが勝手にやってることなのだろうか?自治がなくなると、行政や国などの負担はどんどんかかる一方だなと思います。
自治という仕組み、PTA も然りですが、役員になってみると、役員じゃない人たちがいかにボランティアということ無視して、協力しないか。ということも目の当たりにしています。
一方で、任意だと言われてしまえば、ボランティアという価値はどこにあるのかなと思えてきて、何かモヤッとするものを感じます。
いろんなことが「あなた(達)が勝手ににやってることじゃない」で済ましてしまっている気がします。そこにセットで、自己責任ですよねというリスクやストレスもついてきています。
仕事柄、地方に行くことも多いので、特に教育や地域維持担保の話を聞くことも少なくありません。
断絶は性善説なのか
30年以内に日本の人口は減ります。確実に減ります。今の3〜4割は減ります。7000万人くらいになると推測されます。
「自治」という、誰かに任せっきりかもしれない話ってのは、実は臨機応変に対処してもらえる、イレギュラーにめっぽう強い素晴らしいシステムなんだと思います。だからこそ、何気ない生活、暮らしも「安心」できることの要因となっています。
たとえばこれを自治会なんてやりたくないって風潮が進んでしまい、より一層「個人の個別化」が進むと、人は減る中で社会という共創が生み出す恩恵に預かることの真意が理解できないまま、その価値観のひとつに「人に迷惑かけない生活をしよう」となったらば、この国は人の声もしない、誰も外に出ない、静かな国になってしまうのではないだろうか?ここも、活気はあるが、実際にはこのような事情があちこちで同時に進んでいる状況をなんとか打開しない限りは、住む人々にとって、静かだけれど、色みのない、暗い街になっていくしかないのかなと感じてしまいます。
自治会の役員会の中で、ある人が「(自分の経済活動という意味の)仕事で忙しい中」とおっしゃいました。
はて仕事?仕事って何?これも立派な仕事じゃないの?ボランティアは仕事じゃないのかな?
この切り分けをしてしまった日本の社会的な価値観から生まれでている社会構造は、紛れもなく人の生活を豊かにするどころか、自由のきかない、融通の効かない世界に進んでいかせようとしているのではないでしょうか。
古くからある地域のしきたりに嫌気さして新しい土地に移り住む人々もいるでしょう。でも、それと自治というのは、どこに行ったって切り離せないのではないかなと思うのです。
人は、どこに行こうとしてるのでしょうか。社会とは自己中心的なものを許容しながらうまく帳尻合わせてくために、人の余白と余白によって何とかなってるものなんじゃないのでしょうか。
そこに発生する歪を、なんでもかんでもイノベーションやテクノロジーに置き換えられると思ったら大間違いだし、もし実際にそれらの施しをやった後に、ああ、昔は良かったなって、絶対言ってしまう案件になりそうで、とても怖くなってしまいます。
メディアの役割
何が言いたいかというと、人の善意(誰からも求められていない正義感という意味で)だから理解しない人が悪いんだよね?っていう雰囲気が常識になり、ネガティブなことばかり、不満をぶつけられてしまう時代になってしまう方向に世論を持ってく、どこも同じようなことしか言わないメディアのあり方を今一度洗濯し候、歴史をたどり、国や行政含め、社会とはなにかなど、いまこそ、メディアなどがちゃんと機能するといいなぁと感じています。
SDGsなんかも大事だけど、その前に以前から支えている機能のアップデートは絶対いると思うし、そのためにも人が人に興味を持つ必要があるし、隣人を知る必要がある時代になったなと感じます。
なんでもかんでも新しいものや、声の大きな人、イレギュラーや奇跡みたいな話ばかりをクローズアップしまくらずに、あるべき世論を生み出す人たちにクローズアップしていけますよう、強く思います。
日常を維持するのは大変だし奇跡
「当たり前」が「日常」を支えています。その「当たり前」の中に、自治会の存在も含まれます。社会とはこのようにたくさんの人々の努力と思いやりで保たれています。それすらも分断してスパンスパンとエッジを立てたり、シャープさを求めて行ってしまいすぎると、SDGsどころではなくなります。
持続可能な社会の維持は通用しなくなるという現実について、我々はしっかり考える必要があるなと思います。
以上、佐々木久美子の記録からくる戯言でした。
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