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歩行運動〜リズムの形成から行動の文脈まで           ── 西丸広史

            
        西丸広史 富山大学 学術研究部 医学系・システム情動科学 教授

『カンデル神経科学 第2版』第33章 歩行運動 訳者,西丸広史 教授に,今回の改訂ポイントや,歩行運動の研究の流れなどを聞きました。


── 歩行運動の研究のトレンドについて教えてください。

 歩行運動を生み出す神経の仕組みについての研究は,特に脳幹と脊髄の神経回路に関し,長年の間多くの研究が行われてきました。近年は,マウスの分子遺伝学が大きく進み,これらの神経回路の解明にも応用されてきました。その結果,どの回路にどのような神経細胞が含まれていて,それぞれがどのようにつながっていて,どのような役割をもつかというようなことが明らかになってきています。例えば,歩行運動で足が右,左とリズミックに動くときにどの神経細胞がどのように働いているかといったことです。今回の『カンデル神経科学 第2版』では,こうして明らかになった神経回路の仕組みが,詳細にわたり解説されています。

 さらに最近では,これらの神経回路が上位の脳領域によってどのように制御されているのだろうか,ということに多くの研究者の興味が移ってきました。それにともない,大脳基底核や小脳,大脳皮質など,より高次な機能を担う脳領域の歩行運動に関する役割についても,さらに詳しく研究されるようになってきており,そうした研究成果も,今回の第2版では取り上げられています。特に歩行の開始や調節にかかわる回路や後頭頂皮質連合野の役割の研究が大変詳しく紹介されています。


── 8年ぶりに改訂された第2版を翻訳されて,感想をお聞かせください。

 今回も翻訳にかかわらせていただきありがとうございました。とても楽しく取り組むことができました。

 「第33章 歩行運動」の章は,今回の改訂で著者が新しく入れ替わり, Trevor Drew(トレバー・ドリュ−)先生とOle Kiehn(オーレ・キーン)先生になりました。お二人とも歩行運動の研究でとても著名な研究者です。内容は,前版の記述を踏襲しているところもいくつかありますが,全体的に大きく変わりました。

  Drew 先生はカナダのモントリオール大学の教授で,ネコを実験モデル動物に用いて行われた,大脳皮質の連合野の歩行における役割の研究で大変有名です。今回,図33-13,14,15,16などは,後頭頂皮質連合野がどのように歩行運動の調節,特に障害物を避ける必要があるときにどのような役割を行っているかを明らかにした Drew 先生のグループの研究成果です。

 Kiehn 先生は 1990 年代から,哺乳類の脊髄歩行神経回路の研究で世界をリードしている研究者です。私が 2003〜2005 年にカロリンスカ研究所(スウェーデン)にポスドクとして在籍していた研究チームのリーダーでもありました。はい,そうなんです,実は私は Kiehn 先生の研究室で研究をしていました。現在,カロリンスカ研究所の教授と先生の母国デンマークのコペンハーゲン大学の教授を兼任されていますが,かつてはノーベル医学生理学賞の選考委員もされていました。

Kiehn先生とともに(2015年頃に撮影)

 Kiehn先生が担当されたことによって,今回の版ではマウスの遺伝学と最先端の神経生理学的実験手法を駆使した研究成果についての記述が大きく増えたのではないかと思います。特に四足動物の筋活動パターン発生回路の研究が,前の版とくらべて詳しく解説されています。例えばBOX33-3では,歩行運動の生成に関与する脊髄の神経回路を構成するニューロンについての分子遺伝学的研究がまとめられています。それから,この回路を制御する脳幹の神経核についての研究成果もかなり詳しく取り上げられています。

── 西丸先生のこの8年間のご研究についてもお聞かせください。

『カンデル神経科学』の初版を翻訳した当時は筑波大学に在籍していましたが,その翌年の2015年10月に富山大学に移りました。

 私は大学院時代から,手法はいろいろ変えつつも,歩行運動に関して,脊髄の神経回路がどのように動作しているのかを調べる研究を,約20年間一貫して行ってきました。マウスの分子遺伝学的解析の助けを借りながら神経回路を構成するニューロン群を同定し,それらが歩行運動の発現に重要な役割を担うことなどを明らかにしてきました。しかし,ここ6,7年くらいは,より高次の脳部位,特に情動を司る脳領域に,研究の軸足を移しています。つまり,歩行運動の情報が,高次の脳部位でどのように使われて,どのように制御されているのかを調べています。

 もう少し具体的にいうと,情動によって引き起こされるさまざまな行動と歩行運動発現との間に,どのような関係があるのかということです。我々人間を含めて陸上に棲む動物のほとんどは歩きます。言葉を話せない動物でも歩行行動の文脈は情動と密接に関わっていて,もしかするとそれを解読することで,言葉を話せない動物の気持ちがわかるのではないか,そういう観点から,特に,さまざまな情動が発現される際,歩行運動がどのように変化するのかに着目した研究を行っています。
最初に取り組んだのは意思決定に重要な前頭前野ですが,今後は,ここにつながる他の脳領域にも広げ,情報の流れを解き明かすべく,研究を進めております。今回この教科書にもたくさん出てきている光遺伝学や,化学遺伝学,たくさんの神経細胞の電気活動を長時間記録する神経生理学的手法を主なツールとしています。


── 今回の改訂では,本書の至るところで計算論的神経科学の台頭が伺われます。第33章でも822ページに「計算論的神経科学のアプローチにより,歩行の理解が深まってきている」という記述があります。

 すでに,1990年代にカロリンスカ研究所のSten Grillner(ステン・グリルナー)先生らによって,この章でも多く触れられているヤツメウナギの遊泳運動(体幹をS字にくねらせる運動による)(図33-3)の神経生理学的な知見をもとに,神経回路の動作をシュミレーションした数理モデルが作られています。四足動物のようなさらに変数が多い複雑な系の場合には,実際の神経回路を説明できるモデルの完成までの道のりは,まだもう少しある気がします。ただ,現在,生物の研究で得られているデータから回路の構成をシミュレーションしてみて,それに実験系のデータを入れて動かしてみる,といった研究の方法は,計算機の能力の向上に伴ってさらに盛んに行われていくと思います。

 また,歩行運動を研究しているのは医学・生物学系の研究者だけではなく,情報系・工学系の研究室においても,ロボットの開発などで多くの研究が行われています。もし,ある運動をヒトと同じように実行できるロボットなどが作られたときに,そのロボットで使われている仕組みの中には,我々の生物の研究では気づくことのできない機能や回路などが発見されるヒントになるものがあるかもしれません。そのような期待を,私も含め,医学・生物学系の研究者の多くがずっと持っていると思います。将来,ロボットでスムーズな歩行が実現したとき,その仕組みと似たようなメカニズムが我々の歩行回路にも発見されるかもしれないですね。

── どうもありがとうございました。

2022.11.28
聞き手:藤川良子

 Profile
西丸広史(にしまる ひろし)
富山大学 学術研究部 医学系・システム情動科学 教授

1998年 筑波大学基礎医学系助手,2003年 カロリンスカ研究所・神経科学研究部門(スウェーデン)日本学術振興会海外特別研究員,2005年 産業技術研究所 脳神経情報研究部門 研究員,2008年 筑波大学大学院人間総合化学研究科准教授,2015年 富山大学 大学院医学薬学研究部 システム情動科学准教授。2022年11月より現職