神経科学は私の推し
『カンデル神経科学』はいわゆる「鈍器本」だ。世にいう鈍器本とは,もはや鈍器にもなるくらい厚くて重い書籍のことを指す。1649ページ,2.8キログラムあるのだから,『カンデル神経科学』を鈍器本と呼ぶことに大方の人は賛成してくれるにちがいない。もちろん,揶揄したいがためにそう呼ぶわけではなく,むしろ,大量の情報を生み出した知性や作り手の情熱に対する敬意にウィットを込めていると思っていただきたい。とはいっても,神経科学が生み出してきた知のすべてが『カンデル神経科学』に採録されるわけではない。情報は何度も選別を受ける。多くの神経科学研究者が繰り返し実験して確かめた結果や,それらをもとに構築された仮説は,教科書に載せるべきか否か吟味され,そうしてすくいとられた上澄みだけがここに記される。それでも鈍器本と呼ばれるほどの量になってしまうところに,愛情を込めて鈍器本と呼びたくなる所以がある。
『カンデル神経科学 第1版』の膨大な文章から宣伝のために編集者が抜き出したフレーズを見せてもらった。それ自体がすでに哲学的であり文学的で,私は一人興奮してしまった。昔から,淡々として抑制的な文章に宿る魂みたいなものに惹かれてしまう。そもそも神経科学は,神経細胞(ニューロン)やそれらが作り出すシステム(神経ネットワーク)の機能を調べる学問領域で,最終的に精神や心を扱うものだ。だから,哲学的だったり文学的だったりするのはごく自然な成り行きといえる。人類の長い歴史の中で宗教や哲学,文学が専門としてきたテーマをついに自然科学が扱えるようになってきた。ここであらためて抜き出されたフレーズを引用してみよう。
これらの言葉を受け取るに際し,大切なことが二点ある。一つは,『カンデル神経科学』に記載された内容は経験や主観ではなく,実験的な証拠から導き出された科学的な仮説であること。もう一つは,これらのフレーズがそのまま教科書に載っているわけではないこと。専門書だから元の文章はずっと詳細で込み入っている。受け取るこちらが集中力を二段階くらい上げないと頭に入ってこない知の集積物を,文意を変えない範囲で省略しつつ引用している。
私自身は,人間の記憶について書かれた最初の二つが特に好きだ。昨日の自分,去年の自分,十年前の自分の記憶があるからこそ,自分がずっと自分であると思える。それくらい大切なものであるにもかかわらず,記憶は驚くほど曖昧だと思う。それなのに平気な顔をして生きていられる人間とは一体なんなのだろうかと,ずっと不思議に感じていた。記憶は神経科学の中でも盛んに研究されているらしく,論文が一流の学術雑誌に取り上げられているのをたびたび見かける。それらを眺めるたび,自分が自分であることに物質的実体が伴っているのだと嬉しくなり,同時により不思議な感覚に襲われる。
三つ目のフレーズは,人間の意思について私たちが抱いている信念に変更を迫る。食べたり走ったり話したりといった,自らの意思によって行われていると信じられている体の動きは,実のところ自分がそうしようと思う前に始まっているのかもしれない。だとしたら,自由意志って一体何なんだ,とキレそうになるくらい核心的な命題に触れている。SF的モチーフといっそ言ってしまいたくなるくらい壮大なテーマに神経科学は至りつつある。
最後の四つ目では,神経細胞同士の結合を個性に結びつけている。細胞の性質や機能を調べる領域は昔からずっと盛んで,生物学の主役の一つだ。一方,個性には,性格や発想といった高度な精神活動が含まれている。人間誰しも興味をもつ身近なテーマであるにもかかわらず,神経科学の研究テーマとして扱う上では,その高度さゆえ困難を伴った。遠く離れていた二つがついに邂逅しようとしていてエモいことこの上ない。
序文に,
とある。まかり間違えば他分野の研究者から文句が出そうな一文だが,「俺たちは偉いのだ」と言っているわけでは決してないと思う。20世紀後半の生命科学の中心にいたのは,DNAと遺伝子だった。遺伝子の物質的な本体がDNAであることがわかり,そこから「分子生物学」が発展した。いきなり用語が増えて申し訳ないがもう少しお付き合いいただきたい。当然だが,人間の体は細胞からできていて,細胞は,タンパク質や脂質などの部品から構成されている。そして,遺伝子はタンパク質の設計図に当たる。遺伝子からタンパク質,タンパク質から細胞,細胞から体,の順番で生物は組み上げられていくわけだ。だからこそ,遺伝子の情報が調べられるようになったことは,研究者にとって福音に他ならなかった。遺伝子を調べ,タンパク質の機能を明らかにし,細胞の特性をつまびらかにしていった。生命を,細部から理解しようとした。こうした,全体を細かい要素に分解し,要素の一つひとつを丁寧に調べていけば全体のことが分かるという考え方は,「要素還元主義」と呼ばれている。1990年に開始され2003年に完了した「ヒトゲノム計画」もこの流れの中に存在し,ヒトの設計図を明らかにした。神経科学の現在の興隆も例外ではなく,神経細胞に使われている部品(タンパク質)の機能が調べられてきた。また,神経疾患の原因を調べるために,故障した部品を探す研究が盛んに行われている。つまりは,生命科学全体から恩恵を受けたからこそ,長年の謎である「精神・心の物質的本体」へ手が届きそうな場所にまでたどり着いた。その高揚が,上に引用した文を書かせたのだと思う。神経科学は,他の重要な自然科学の分野と同じく,もうすでに自然科学だけのものではない。神経・精神疾患の治療に応用されるだけでなく,何よりも,人間を理解するのに必須の基礎教養となった。
私の専門は神経科学ではないので,神経科学の盛り上がりを外野から眺めてきた。よく言えば知的好奇心,悪くいえば野次馬根性である。特にこの十年間の発展は特別で,神経科学がもたらす研究結果に心躍らされてきた。神経科学は私の推しだ。キラキラして眩しい。推しは推せるときに推すのが鉄則である。ここに何を書くべきか頭を悩ませ,おおよそ考えがまとまってからあらためて『カンデル神経科学 第1版』の序文を読むと,私の頭に思い浮かんでいたことが全部書いてあった。それもずっと格調高い文章で。だから,このnoteを読んで少しでも興味を覚えた方はぜひ手にとって本物の序文を読んでほしい。人間とは何かを追求し始めた自然科学者の迫力と,「やったるでー!」という興奮が感じられて素晴らしい。私は引き続き,推しがどのくらいすごくて,どのようにすごいのか,誰に聞いてもらえなくとも語るつもりだ。
2022.6.20 牧野 曜(twitter: @yoh0702)