研究に対する批判は、あなたの人格に対する非難・否定ではない
研究について議論していると、途端に機嫌が悪くなる学生がいる。研究に対する批判を、個人的に非難されていると受け取るらしい。これは、ある意味仕方のないことで、日本の教育では、「意見に対する批判は、人格に対する非難ではない」という議論のルールを教えないので、意見を否定されると人格を否定されているように感じるわけだ(典型的な例がX(旧Twitter)で、よく見うけられる)。日本人に限らず、アジア圏の学生にも同じ傾向が見られる。なので、学生を指導する際には、はじめに「意見に対する批判は、人格に対する非難ではない」という議論のルールを明確に告げ、「ダメだ」とか「なってない」といった感情的なニュアンスの言葉は避け、「論理がつながっていない」とか「解釈に無理がある」という言葉で批判するようにしている。それでも、学生があまりにも思考が浅い意見をいうときには、「Use your brain!」と言ってしまう。
あるとき、研究プロジェクトの進め方を議論している際に、中国人留学生が外国人助教(東欧出身)の指導は受けたくない、という苦情を教授に申し立てた。理由を聞くと、外国人助教が、中国人留学生のことを「馬鹿だ(Stupid)」と言ったという。外国人助教に確認すると、「馬鹿な考えだ(Stupid idea)とは言ったが、留学生のことを馬鹿者扱いした覚えはない」という。真偽のほどはわからないが、中国人留学生が英語が拙いこともあり、また、「意見に対する批判は、人格に対する非難ではない」という議論のルールを認識していなかったことから、そのような誤解が生じたのであろう。教授が仲裁に入ったが、結局、その留学生は外国人助教の指導からは外れることとなった。
「意見に対する批判は、人格に対する非難ではない」という議論のルールは、研究活動において必須である。そのルールなしでは、最終的に非難合戦になってしまい、建設的な議論ができないからである。本来ならば、大学の学部または研究室に入った段階で、議論のルールを明確に認識させるべきなのだ。また、議論の本質よりも「言い方」に批判の焦点が集まることも避けなければならない。大学院生時代は、歯に衣着せぬ物言いも多かったが、学生を指導する立場になるとパワハラ・アカハラにならないように配慮する必要も出でてくる。そういう意味では、日本人同士であっても、つたない英語で率直な物言いで議論したほうが良いのかもしれない。