マーケティングにおける「他者性」の弊害
例の件なども根っこは実はそこから来ているのではないか確信しているのだが、モダンマーケティングの孕む根深い問題は、おそらく「マーケティングにおける”他者性”」にある。
価値というのはモノに内在しているという、長らく続いたモノを中心としたマーケティングの支配的思想が、サービス概念によって、価値は共創的に生まれると考えられるようにもなってきたように、マーケティングというものを「企業が顧客に働きかける活動」というものから、「企業と顧客間との相互行為である」というものとして、もっと思想を変えていかなければならないのだろう。
もちろん、企業と顧客との相互行為をとらえたマーケティング概念はないわけではない。両者の関係性としてとらえたリレーションシップマーケティングや、或いは企業の従業員と顧客との相互行為をインタラクティブマーケティングとした、北欧学派のサービストライアングルといったものがある。しかしここで問題としたいのは、いわばマーケティングの思想というか哲学的なものであり、マーケターの頭の中に無意識に出来上がり、その思考を支配する、ある考えについてである。
「企業が顧客に働きかける活動」という思想では、常に顧客というのは外部の他者である。しかし、より「相互行為」という思想に向いていけば、顧客とは単純な”外部”の”他者”ではなくなる。つまり外に置かれた存在なのではなく、マーケティングの行為者とその対象が一体化された状況である。
結局のところ、現在知られているモダンマーケティングにおいては、そもそも顧客を外部の他者として捉えていることが根にあり、企業(やそのマーケティング従事者あるいは広報担当者もそうかもしれないが)は自らの事業の対象者を自分たちと明確に分けて扱っている。
簡単な例でいうとすると、イチ生活者であるA氏が、企業のマーケティング担当者という肩書を纏った瞬間に、「マーケティング従事者」とその「顧客」というように、世界を二分して見るようになってしまうということである。
このような自己と他者を分けてしまうある種の分断が、例えば相手のことを考えないインサイドセールスやマーケティング、あるいはマーケティング業界における様々な非礼な言葉のやりとりを生み出しているように考える。
もし、マーケティング(や企業のコミュニケーション活動)というものを、自己と他者を切り分けた存在として考えるのではなく、その両者の境界がないように考えることができるのであれば、それは非常に深いところでの「マーケティングの哲学」のようなものであり、今必要とされているのではないだろうか。
今、日本の中で知られているマーケティングというものは、Kotler の拡めたマーケティングの思想・方法論である。こうしたマーケティングというものが、もし西洋的な自我や主体という存在への無意識の前提が埋め込まれているとしたら、それは顧客と外部の他者のように捉えるのはいたしかたないことだろう。
一方で、フッサールらの現象学をも援用した Lusch & Vargo の Service-dominant logic (SDL) のように、経済的活動を service (servicesではない)ととらえ、価値は(例えば企業と顧客の)共創によって生まれると考えるようになると、そこでは企業と顧客の関係は相互行為の上で一体化している。
日本には西田幾多郎という哲学の偉人がいる。冒頭で引用したように、西田の哲学においては、単純に自己(吾)と他人をわけることはしない。西田の場合は、主体(=個々の人間)がなにか(客体)を認識するときに、その客体と一つになる(合一する)という考え方をする。この場合、自身が対象と合一することであるから、対象(客体)の痛みや利害というものは自身(主体)も同様に感じる、ということになる。この概念を「主客合一」と呼び、自分と他が一つになるということを意味している。
通常「マーケター」になった瞬間にその役割を担おうとする結果、「マーケター」は人々を、「ターゲット」や「顧客」という言葉のラベルで分け、それらで世界の分節化を行ってしまう。つまり、主客を合一するのではなく、むしろ「分離」することかスタートする。
このことは非常に無意識に行われてしまう。なので、自らの業務上の役割を持って、世界を分節化していることに、マーケター自身も気づかないし、自覚することすら難しい。
西田哲学的に考えると、「我」というのは「我々」でありそして「社会」であるとする。こうした西田哲学の考え方を援用したような、両者の境界線が溶けているような、そうした「主客合一」的な思想のマーケティングが、今必要となっているのではないだろうか。
そしてまた、こうした考えを、purpose や、SDGsや、authenticity、integrity といった昨今流通している言葉のもと、企業の社会的存在意義が問われていることに当てはめてみる。そうすると、社会を企業の外側のものとして捉えるか、あるいはそれらを合一的なものとして捉えるか、この2つの考え方のどちらを踏まえて、それら(purposeなど)を考えるかが変わってくるだろうことも容易に想像できるだろう。