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ステルラハイツ6393

 明け方から降り出した雨で街はしっとりと濡らされて気温は上がらず、朝目を覚ますと肌寒さに身が震えた。

 たまこは硬く絞った雑巾でリビングの床を拭く。板目に沿って丁寧に拭いているうちに額に汗がにじむ。ふーっと息を吐いて身体を起こすと、テラスから吹き込む風がひんやりと汗を乾かした。

「おはよう。」
 いつの間にかミミ子がリビングに降りてきていた。この時間に起きてくるのは珍しいことだが、きっと興奮してほとんど眠れなかったのだろう。潤みながらも光を放つ目が物語る。
「お茶でも入れようか。」
 たまこが言うと、ミミ子は自分がやるよと手で制し、キッチンに立つ。
「ミルクティー入れるよ。」
 たまこはうなずいて、床を拭き上げる。興奮した心を鎮めるのにもミルクティは役立つ。こんな風に秋を感じた日にもミルクティが似合う。久々に磨かれた床はうれしそうに光っている。

「ちょっとだけ緊張するんだよね。」

 ミルクティのカップを両手で包み込みながらミミ子がつぶやいた。何のことかは聞かなくてもわかる。たまこは、うん、とだけ言ってミルクティをすする。
 突飛で奇異で、ある種のおそろしささえ感じさせるミミ子も、こうしていると普通の一人の女の子。相手にどんな訳があろうと、拒否されるというのは、心に傷を付ける。そこから何度立ち上がったかは知れないミミ子にしても、傷付くのはこわい。こわさを恐れずにやってきたからこそ、強靭な精神力と他人を受け入れる力が身に付いた。それでも、こわいものはこわい。

「ただもう、わたしのすべてがそうしろって言ってるの。」

 そう言うミミ子の体は小刻みに震えていた。顔には穏やかな微笑みを浮かべている。たまこは、うん、とだけ言ってミルクティをすすった。
 そうだ、とミミ子は思い出したように立ち上がって紫の部屋へ戻る。そして、手にいくつかの物を持って再び降りてくる。
「これJINちゃんと、たまこに。」
 そう言ってミミ子は、ビーズや小さな鏡の飾りが付いたオレンジ色の小箱を机に置き、波をいくつも合わせたような形の青色のガラスの花瓶をたまこに手渡した。最後に深紅のバラの髪飾りを差出して、
「これは、誰か要る人がいれば。」
と言った。たまこは赤い扉に頭を傾けて、
「あそこの部屋に置いておくよ。」
と言って笑った。

「おはようございます。」
 間もなくすると、赤い扉から寝ぼけ眼の彼奴が出てきた。
「おはよう。」
 ミミ子はミルクティを入れてやり、たまこはトースターで焼こうとしていた丸パンをひとつ増やす。

「ぼく、ミミ子さん送って行きますよ。」

 与えられたものをひと通り口にして、なおかつまだ眠い目をこすりながら、其奴は言った。自分も帰るついでだと言うから、ミミ子も遠慮なくお願いすることにした。

 それからミミ子はシャワーを浴びて、服を着替え、持てる荷物を車に積み込み、少し晴れ間ののぞいてきた空の下、出発の準備は整った。

「たまこ、ありがとう。ここはとてもいい場所。」

 玄関を出ると、ミミ子はたまこをぎゅっと抱きしめてそう言った。涙声で震えている。たまこはその福与かな体をぎゅっと抱き返した。

 その向こうに、所在無さげな顔をして彼奴が立っている。

 たまこは笑顔で「バーカ」と口を動かす。

 其奴の顔が明るくなる。見えない尻尾がまたぶんぶんと振れている。

 此奴は憎めないけど安心もできない。何の気もなくどこかへ行っては、またすぐに他の誰かの懐に入り込むのだろう。たまこには其奴の弱さがハッキリ見える。それは、生きるために身についた強さでもある。
 たまこは認める。此奴が行ってしまうのはとてもさみしい。だけどずっと一緒に居たくはない。

 近寄ってきた其奴に、もう一度「バーカ」と今度は声を出して言う。

 其奴は少し機嫌を損ねるが、気を取り直してたまこに右手を差出す。

「たまこちゃん、ありがとう。」

 たまこは笑って、その手を両手でパチンと挟む。

「いってらっしゃい。」

 

 走り出した車の窓からミミ子が身を乗り出して「いってきまーす」と手を振っている。

 たまこはそのまま車が見えなくなるまで見送った。車が見えなくなると、自然とため息がこぼれ出た。胸が少しだけ騒ぐ。

「行っちゃったー。」

 わざと大きな声で言い、胸に手を当てる。人が去って行くのを見送るのはいつだってさみしい。


「えっミミ子も出て行ったの?」

 二人を送り出して感傷に浸る間もなく、昼すぎにはJINちゃんが帰ってきて、展開の早さに驚きの声を上げる。たまこはJINちゃんのお土産の海産物を冷蔵庫に入れながら、事の顛末を話し出す。

 それを聞きながら、JINちゃんは何度もひたすら驚きの声を上げる。特に、ワンさんが日本人だったというくだりでは大袈裟な位に驚いていた。

「そっかー。そっかー。そっかー。」

 すべてを聞き終えると、JINちゃんは色んな口調で何度も同じ言葉を吐き出した。そして、ひと時の沈黙の後、こう切り出した。

「実はたまこ、わたしもニューヨークに行く事にしたんだ。」

 今度はたまこが驚く番だった。一瞬言葉を飲み込みそうになったが、

「えーっ、いきなりだね、さみしいなあ。」

とすぐに正直な言葉が出た。

 それはやっぱり例の男からの仕事で、ここ数日現場に泊まり込みで作業している最中に誘われたと言う。無口な男とJINちゃんとの個人的な関係は、いまだに何も進展はない。

「なんかさあ、変かも知れないんだけど、やっぱりそれでいいかなって思えちゃうんだよね。」

 決定的な言葉も、肉体的な結びつきも、ないけれど、お互いに熱中することを共有している関係なのだと言う。吹っ切れた表情でそう語るJINちゃんにたまこは言った。
「変なんかじゃないよ、JINちゃんかっこいい。」
「うん、実はわたしもそう思う。」
 JINちゃんはニカッと笑って冗談めかしながらそう言った。うまくいくだけが恋愛じゃない。それはひとつの真実なのだ。
「まあ、すぐにってわけじゃないからね。」
 発つのは今の仕事が終わってから、早くとも数ヶ月先の話。たまこは少しホッとする。

「あっ、そう言えば。」

 矢継ぎ早に起こる出来事の中で、すっかり置き去りになっていたミーコおばさんの事を、JINちゃんに話す。たまこの中でミーコおばさんの事は不思議と片が付いていた。

「今度はイルカと恋に落ちちゃったのかも」

 こないだは思いつかなかった展開も飛び出した。口にするとなんだかもうそうにちがいない気さえした。

 しかしその話を聞いて、JINちゃんはまた一段と驚きの声を上げ、青い絵を見上げながら後ろに倒れそうになった。

 そして、物事は起こる時には立て続けに起こるものだ。その後、ステルラハイツは誰も予想だにしなかった客を迎えることになる。

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