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推し活は新しい「ご近所づきあい」である


2024年12月、こんな記事が公開され、大きな波紋を呼んだ。「推し活」という言葉が市民権を得た中で、その暗部を取り上げた記事である。中でも特に注目されたのは、精神科医のコメントだ。

推し活にのめり込んでしまい、多額のお金を払ってしまうのはある種の人間関係依存症だ。社会生活を維持していく上で問題のない範囲なら個人の自由だが、一線を越えてしまうと歯止めがきかない。アルコールやギャンブルへの依存症と構造は同じ

東洋経済オンライン 「1億総推し活時代」ブームで増える不安と悩み

個人的には「推し活にお金を費やしている」サイドである私にとっては、衝撃的な記事であったことは言うまでもない。果たして、私は推し活依存症なのか。「推し」始める前に一度自分の頭をリセットし、その構造を改めて見直してみることにしたいと思う。

この記事は、九州大学の現役学生が制作するラジオ番組「ケロケロ見聞録」(ラブエフエム国際放送、毎月第一日曜22:00~)がもっとおもしろくなる情報を提供するものです。この記事に興味をもった皆さん、ぜひ各種サービスでケロケロ見聞録をお楽しみください!

1.推し事、を振り返る

 私が所属している団体が制作する番組、「ケロケロ見聞録」では、25年最初の放送でこの「推し活」について取り上げた。番組内ではパーソナリティ陣や大学生の推し活の実状についてインタビューを交えて伝えた。その中で特筆すべき箇所を取り上げたい。

Q1.あなたにとって、推しとはどんな存在ですか?
A1.理想、絶対的存在、生きる活力

Q2.推し活をしていてよかったこと
A2.落ち込んでいるときに声を聴くと元気をもらえる、受験の時期に歌を聞いて、やる気を出していた

この二つを通じて感じることは、推しは誰かのネガティブな部分に寄り添える存在である、ということである。自分のなりたい目標であり、自分の好きになれない部分を肯定してくれるものであり、自分にはできないことをかなえていく憧れでもある。
そうした少し遠い存在を応援することで、自分もそのパワーをおすそ分けしてもらえる、という構造が見えてくる。
また、放送内ではこんなコメントも印象に残った。

かえで:「萌え」とかの時代は、自分の中で好きを自己完結しないといけないような風潮だったけど、今は自分の好きを共有できるようになった
これまで白い目で見られがちだった「オタクカルチャー」が世間に受け入れられたことに加え、SNSなどを通じて仲間を見つけやすくなったことから、推し活継続へのモチベーションをより高めやすくなった、とも考えられそうだ。
これらを踏まえると、推し活は「推しの活躍から生まれるパワーをおすそ分けしてもらい、自分が頑張る活力を養う行為」であり、「近年は推し活を始めたり、続けるハードルがどんどん下がっている」と私は考えた。

こちらの放送はspotifyでダイジェスト版をお届けしているので、ぜひ聞いてみてほしい。


2.推し活≒ご近所づきあい?

 ここからは、推し活が抱える問題、消費の扇動について考えたい。冒頭に紹介した記事内では、各世代ごとに推し活の負担感をアンケート調査している。その結果、若年層になればなるほど負担に感じている人が多いということが示された。

記事より引用

大きな負担を背負いながら、彼らが求めているものは何なのか。記事中には「アルコールやギャンブルと同じ」と書かれているが、それに加えてもう一つの欲求があるように感じる。それは、「どこかへの帰属意識」である。

 今現在、推し活の殆どで「ファンダム」という考え方が一般的になっている。元々はFanとKingdomを掛け合わせた造語であり、特定のコンテンツを推しているファンが作り上げた文化や、大きなコミュニティのことを指している。


 最近はこのファンダムを意識したマーケティングも行われており、アイドルグループやインフルエンサーなどは、ファンネーム(TWICE→ONCE、なにわ男子→なにふぁむ)を作り、よりファンの帰属意識を高めている。


 ファンダムの構成員たるファンは、SNSを通じて繋がり合い、情報を共有するなどしながらそのつながりを強める傾向がある。新曲を聞き、CDやグッズを買い、動画コンテンツなどを楽しむことで共に盛り上がり、共感性を高めていく。同時にファンダム内には「推しをもっと活躍させたい」という目標が共有され、新曲プロモーションを自発的に行ったり、ミュージックビデオ(MV)をたくさん見る、といった行動に繋がることもある。

 全てのファンが一つのコミュニティにいるわけではないが、ある一つの「ファンダム」の中にいるのだ、という感覚は、こうした盛り上がりや目標によって強まっていく。その時、名前があることがより重要な効果をもたらすことになる。自分をそのファンダムの一員だと自称することが一つのアイデンティティとなり、馴染んでいくのだと思う。


 こうしたコミュニティが活発になる背景には、日本から消えつつある「ご近所付き合いと町内会」との親和性があるからではないか、と感じる。


町内会は自分が住む町の自治を目標に、美化活動や防犯見回りをしたり、新入学の子どもや還暦を迎えた方々に記念品を渡したりするために会費を徴収する。そして年に一度のお祭りを絶やさず盛り上げ、中にはその神輿制作に人生をささげる人もいる。。。という具合である。


 最近は、ご近所付き合いが面倒、という人も増え、町内会も人集めに苦慮している。ただ、それは誰かと繋がっていたい、どこかに帰属したいという欲求が消えたことを意味する訳ではないように感じる。ただその実現に労力がかかるのが嫌で、やりたくないことまでもが自分の生活に侵食してくるという強制の辛さもご近所付き合い離れの要因だろう。


 その点推し活は、始める段階では極めて自由度の高い帰属場所の獲得方法だ。近年はMVだけでなく、ライブ映像やバラエティ番組さながらの企画動画などが無料で公開されている。「無銭オタク」といって、そういったコンテンツだけを楽しみながらコミュニティに属することも可能である。


 ただ、いざお金を使い始めれば際限は無い。抽選で当たるお話会の権利などは使う金額が青天井であり、同じファンから見ても心配になる投稿を見かけることも多い。最初はある「推し」に魅力を感じ、その推しをみんなで応援するコミュニティの心地よさに浸かっていただけのはずが、最終的に強迫観念的な思いで消費し続けることに繋がっていく。


 推し活は今や一つの大きな市場であり、経済効果を期待して国や企業が全面的にバックアップするカルチャーとなった。ただ、彼らを突き動かしている原動力によっては、ストップをかける必要性も生じてくる。応援という純粋なゴールを設定しやすいものならいざ知らず、「帰属意識・承認、認知欲求」には終わりがなく、むしろ途切れることに恐怖や不安を感じるものである。


 ファンダムを形成することで利益を生み出す構造自体は革新的であり、救われている人も多い。だからこそ、町内会が社会に求められてきた「公共性」という部分をどのように担保するのか、もし抱えきれないのならばどこが介入すべきなのかを今一度考える必要がある。

 社会的に無視できないほどの大きさがあるコミュニティの目標が、最終的に誰かを不幸にすることは認められない。影響が強まるほど、求められる責任は大きくなる。際限のないランダムグッズ消費の制限など、法的に取り締まれる部分もあるはずだ。

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