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「氷山に咲く大輪の花」第1話 遡る記憶

歌がうまいなんて、それまでの人生で一度も思ったことはなかった。
発想が豊かになる。なぜなら、唐突に「本当は歌がうまいんだよ」と内側の声を聞いたからである。
たしかあれは、30代半ばころのこと。胸の内側からはっきりと聞こえてきたのだ。今までの自分をふり返ると、そんなことはとうてい信じられない。どうにもこうにも歌をうまく歌えるはずはないのだ。

そう、私は音痴である。
今までの体験を通しても、そのことはよくわかっている。

思い出すのは小学校6年生の音楽の時間。
自分が担当したい楽器を選んで、クラスで発表会に向けて合奏の練習をしているときだった。
「リズムがずれているよ」と、シンバルを担当しているT君がせっかく言ってくれたのに、僕は「大丈夫だよ」と根拠もないのに自信たっぷりに返事をしたのだった。
今思えば、リズムがずれてることなんて、リズム感がある人ならすぐにわかることだ。おそらく私の大太鼓の音は、ちぐはぐなリズムでその場に響いていたに違いない。

運動会のために行進の練習をしているときだって、所定のリズムに合わせて足を運ぶことが苦手だった。
「ひだり! みぎ! ひだり! みぎ!」
運動場に響く先生のかけ声に、最初は左、右と、足を合わせて行進しているのだけど、なぜか少し時間が経つと微妙に先生のかけ声と自分の足の運びがずれてくるのだ。左右の足の運びが完全に逆になってしまう寸前で、下手なスキップを踏むような感じでいつも左右の足を入れ替えていた。

そんな私でも小学生のときは、テレビの歌番組をよく見ていた。
毎週放送される「歌のトップテン」や「歌のベストテン」を欠かさず見たり、お気に入りの曲があれば、テレビのスピーカーの前にカセットレコーダを置いて録音したりもした。
いっぽう、中学生になると一転して、人気歌手の歌をあまり聞かなくなっていた。周りへの反発心が出てきたころ、自分は歌が下手なのにもかかわらず、生意気にも「歌詞に意味がない歌なんて聞けない」と心のどこかで思っていたのだ。

それでも、合唱の練習は嫌いじゃなかった。思い出すのはあの光景。合唱祭に向けた練習をクラスでしているときだった。

秋の、夜空を、かけてーゆくー天馬〜♪

仲のよかった友達が、歌いながら僕を見ている。彼はしっかりとお腹(なか)を使って声を出している。それがはっきりとわかる歌い方だった。
その彼の姿は、まるで蚊の鳴くような声でしか歌えない私の歌い方に、何かを訴えているかのようにも感じられた。

正直にそのときの自分の心情を捉えてみると、本当はもっと声を高らかに出して歌いたかったし、彼のように歌いながら自分を自由に表現したかった。
彼はきっと、ただ普通に歌っていたのだと思う。しかし私にとっては、とても印象深い光景で、彼のそのときの姿は大人になった今でも私の脳裏に焼きついている。

野球に明け暮れた高校時代は、自分が本当に好きかどうかわからないまま、野球部の仲間が好んでいた歌を自然と聞くようになっていた。

尾崎豊の「卒業」は印象的な曲だった。

ぎょーぎよーくまじめなんて
くそくらえと思った~♪

マジメがくそくらえとは思っていなかったけど、尾崎豊の渾身(こんしん)の歌は、何か心に共感できるものがあった。野球部の練習は、毎日同じことの反復で、決しておもしろいと思えるものでもなかったから。
夏の大会が終わり、上級生がいなくなった2年生の秋には、野球部の監督に反発して、同学年9人全員で練習をボイコットしたこともある。練習は地道にやるものだけど、なぜその練習が必要なのか納得できないまま練習をくり返していることが、嫌になってしまったのだ。

結局、親たちが連絡を取り合って話し合いをするという事態を招くことにもなった。ボイコットが始まったころは、みんなで意思を結託(けったく)させていたけど、一週間くらい過ぎたころから、親が間に入ったこともあり、それぞれの気持ちに変化が表れはじめた。
納得いかないことはあるけど、やっぱり野球は続けたい。
それが正直な気持ちでもあったのだ。一人、また一人とボイコットをやめて部の練習に戻っていくようになった。
監督とも、ほんの少しだけ話し合いをする場があったけど、心の中でモヤモヤしているものを素直に言葉にできるような話し合いの場ではなかったように覚えている。
当時は20代後半の監督自身も、おそらく、なんでそうなってしまったのかわからなかったのだろう。それまでは、監督のやり方に異を唱える生徒はいなかっただろうから。
結果的には、元の練習スタイルに戻ってしまったけど、自分たちの気持ちを表現したという点においては、当時の私は心のどこかで納得していたと思う。

そして、当時私がよく聴いていたもう一人の歌手は、長渕剛である。自分というものを強く外に向けて表現している彼の歌からは、何が本当にいいかよくわからなかった高校時代に、自分の内側に響くものを投げかけてくれていた。

思い返せば、高校時代に父とまともに話せない時期があった。野球部の練習試合があるたびに試合を見に来ていた父に、その日程を知らせることすら、嫌でできないことがあったのだ。
「今度の試合はいつですか? 息子が何も言わないから……」
当時は、玄関から居間に通じる廊下に電話が置いてあって、父は野球部のキャプテンの親に電話をして、試合の日程を聞いている。
その会話が居間にいた私の耳に入ってきたのだ。このときばかりは、無意識にも父に対しとっていた態度に、思いやりがまったくなかったことに気づかされて、申し訳ない思いでいっぱいになった。
思春期のころは、自分というものを持てば持つほど、親への反発心が出てくる。でも、電話での声が高校生の私に聞こえるところで、わざわざ電話をかけたときの父の気持ちはどんなだっただろうか?
そのときから私の気持ちは少しずつ変わっていったかもしれない。少しとがっていた大人への反発心が、まるみを帯びていったようにも思う。

高校を卒業して大学に入学すると同時に、私は生まれ育った家から離れることになった。私立の高校に通うことによって、親に経済的に負担をかけていたから、大学には新聞配達の奨学金制度を利用して通うことに決めていたのだ。


2話以降はこちら:



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