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「氷山に咲く大輪の花」第5話 清きふるさと♪

毎週月曜日に配信中。他の話はこちらから。


60分のレッスンのうち、最初の20分は、先生の張りのある声とピアノの伴奏に導かれて、音程を意識しながら声を出していく。声を出すときの自分の姿勢などをチェックできるように、2メートルくらい先には大きな鏡が置いてある。

もももも ももももも~♪

低めの音からはじまり、真ん中あたりの「も」で音程、声量とも最高潮になり、山の頂上から下りていくかのように「ももももも~♪」と下がっていく。
声楽の先生は毎回のレッスンのたびに私の成長度合いをみながら、「次は、口の形をしっかり作って『お』で発声しましょう」「今度は『ま』でいきましょう」というように、発声の技法を少しずつ教えてくれた。

また、歌うことへの苦手意識が少しずつうすれてきたころ、先生はこんなことも言ってくれた。
「井上さん、最近は声がだいぶ出るようになってきたから、音程のズレが少し目立つようになってきました。それなので、音程も少しずつ意識していきましょう」と。

このころから、なんとなく自分の内側に、歌うことに対し重たい壁のようなものがあることを感じはじめていた。
発声練習をしているときに浮かび上がってくる心の重さみたいなものは何だろう? 鏡を見ていると、自分の身体の周りがうす暗く見えてくることもあった。

声楽のレッスンに通い始めて半年が経ったころ、この疑問を自分に問いかけていたら、あるとき、ふと一つのビジョンが自分の内側で見えてきた。何かをクシャッとつぶしたような模様が見えてきて、それが脳の中にあることを知らせてくれている感じであった。
印象的なあのビジョンはいったい何だったのか? 自分の内側で何度も問いかけていた。
そして、静かに呼吸法を重ねているときのことだった。
「音楽なんて二度とやるものか!」という声が、自分の内側から聞えてきたのだ。
その瞬間に、あのクシャッとしたものはこの否定的な思いによって形作られたものであろうことが、自分の感覚を通して明確に捉えられた。

私自身がおそらく過去世で音楽に関連するつらい体験をしたことがあり、そのときの自分の意識で作り出した感情が、あのクシャッとしたものを自分の中に作り出したのだろうと。
そして、それが音楽に対しての障壁(膜のようなもの)のようになり、音痴になっていた大きな原因はそこにあったのではないか、と感じとることができたのだった。


順調に声楽のレッスンを重ねていた私は、「ふるさと」「赤とんぼ」など日本の歌、そして、「蓮(はす)の花」「シューベルトの子守唄」などクラシックを歌えるようになっていた。

みーずーはーきーよき 
ふーるーさーと~♪

これは、先生がピアノで伴奏をして、私が「ふるさと」を歌ったときのこと。3番を歌い終えると、先生は感想を話しはじめた。
「井上さんが歌っていると、たぶん井上さんが普段大切にしていることだと思うのだけど、水がとても貴重で大切なものだということや、井上さんの背景にあるものが伝わってきて心が動かされました」
先生の目からは涙がこぼれ落ちていた。
私自身、突然のことに少しびっくりした。なにせ、私の歌はまだまだつたないものだっただろうから。それでも、自分の大切にしていることが歌を通して伝わるなんて、うれしかったし、興味深い体験でもあった。

「ふるさと」の3番の最後は「水は清き、ふるさと」という歌詞で終わる。
そのころの私は、「水」に対してある意識を注いでいた。たしか2009年くらいから、川や海の水、また人の内側にある水について、深く考えるようになっていた。
人間の身体は、子どもは70%、成人は60%が水分だと言われている。しかし、その水自体の力が弱まっているという感覚が、私の内側に湧き上がるようになっていたのだ。
水道の蛇口から出てくる水を当たり前のように飲んでいた子どものころは、もっと水がおいしかったように思う。しかし、今となっては、蛇口から出てくる水をそのまま飲むことは、なかなかできなくなっている。
カルキ臭さや塩素のにおいがどうしても気になってしまうし、「水に力がない」と感じるようになってからは、飲み水についても深く考えるようになっていた。基本的には摂取する水が身体の一部になるわけだから、身体や心の状態にも影響する可能性があるだろう、と。

水の循環についても時間があるときはよく考えていた。
基本的に生活排水は、自然の流れの中で海に流れ着く。そして、地表の水や海水は、太陽の光を浴びることにより、おのずと水蒸気となり、それらが上空に集まり雲を作る。そして風の働きにより、さまざま場所に運ばれ、おのずと水蒸気のかたまりとなった雲から、雨が降り注がれる。実際には、考えていたというよりは、こんな内容が自分の内側から湧き出てくるような感じでもあった。

水に力がない、という感覚が自分の内側から浮かび上がってくるようになってから、こんなことはばかげているように思えるかもしれないけど、川に出かけて行って、水を清めるような試みをするようにもなった。
川辺に立って、自分の内側の静かな部分(ハート)に意識を向けていく。そしてゆっくり呼吸を重ねていくと、自分の内側が静かな水面であるかのようにすっとする。ある意味、お墓参りに行って墓前で手を合わせ、目を開けたときに体感するあの感覚にも似ている。

これは、誰かに教えてもらったわけでもなく、おのずと自分の内側から湧き出る感覚に従ってやっていった結果、できあがったやり方だ。ときには自分の意識とともに、お酒をほんの少し川や湖に注ぐこともあった。こんなことが実際にどれくらいの効果を現すかなんてわからないけど、自分の感覚を通して、やってよかったと実感することが多かった。

そして以下の体験は、荒川の源流にあたる奥秩父の湖(ダム)に行ったときのことである。
眼下に広がるダムの水の色は、深い緑色と水色をかけ合わせたようなエメラルドグリーン。いつものように、目をとじて自分の内側に意識を合わせ、呼吸を重ねる。
胸の内側が静かになってから目を開けると、湖面の美しさが目に入ってくる。水面に太陽の光が反射していて、きれいな光が色濃く映し出されている。
実に見事だった。しばしその光景に見とれていると、どこからともなく風がすっと目の前を通りすぎてゆく。普段ながめている自然の景色とはまるで違って、湖自体が龍であるかのようだ。生き生きとした自然界の色が鮮やかに映し出されていた。
いつのまにか、自分が湖や自然と溶け合って、境界がなくなっているかのような感覚になっていた。実際には、自然も自分も一つの個体であり別々のものではあるけれど、深い部分ではつながっているのであろうことを、そして、太古の自然とはこういうものなのだと、体感を通して教えられている感覚だった。

その当時は、九州や四国にまで出かけていくくらいに、大きな意志みたいなものをもっていたから、その分多くの体験もできたし、それによって得られた強い価値観みたいなものを持っていた。

たとえば、よくこんなことを思っていたっけ。
目の前に広がる大自然の雄大な景色を見ては、人の内側にも本当は同じくらいに大きくて自由で雄大なものがあるとか、自然に触れていると本当の自分の気持ちを思い出すこともあるから、木々や川などの自然がなるべく人の身近にあったほうがよいとか。
普段散歩する道端にあった木が無残にも切られているのを見ては、「もったいないな」「なんでこんなことをするのか」と、心残りにも嘆いていたこともよくあった。

しかし、人生とはおもしろいものである。
当時は、自分の考えは正しいと思って活動をしていたが、今となっては多少行すぎた捉え方をしていた面もあるなと思うこともよくある。行きすぎていた分、一緒に活動をしていた人に迷惑をかけてしまうこともあった。
それでも、多少失敗をすることがあったって、それはそれでいい。それが人生のひと滴となって、味わい深い人生を作っていくのだから。自分を見直して、修正できればそれでいいのだ。

音痴を完全に克服した人生の物語。毎週月曜日に次の話を公開予定。


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