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「氷山に咲く大輪の花」第2話 変化の胎動

毎週月曜日に配信中。他の話はこちらから。


大学は千葉県の柏市で、配属が決まった専売所は、その隣の松戸市だった。新聞配達はけっこうシビアだぞと、高校を卒業する前に担任の先生には言われていたけど、新たな生活が始まったことにワクワクしていて、最初のころは大変さをあまり感じていなかった。

寮は昔ながらの古いアパート。築年数は40年以上といったところか。2階建ての4所帯で階段を上がった奥に我が家はあった。ドアを開けると、2畳ほどのキッチンがあり、その奥に四畳半と六畳の部屋がつづいていた。

大学が始まってすぐ仲良くなった友達のS君は、元野球部でもあって歌がうまかった。最初のころは2人でカラオケに行くことも多く、授業をサボってテニスをすることもあった。
野球でボールを投げるときとバットで打つときの身体の使い方は、テニスのラケットをふりぬく動作と似ているから、2人でテニスをしていると、意外とラリーが続く。あの3年における苦行のような野球部の練習は、こんなところでも役立っていた。

大学生活が始まり、2,3か月したころには、おんぼろアパートの私の部屋は友人たちとの憩いの場になっていた。友達の多くは、大学の寮やその近くのアパートに住んでいたけど、週末になるとこぞってわが家へ集まってきた。
4畳半と6畳の間はふすまがあるだけだから、ふすまを外してしまえば10畳半になって、7~8人が集まっても狭さをほとんど感じないくらいだった。

大学に入って間もないころは友達同士でただ集まっているだけで、それが楽しい時間だった。そして、みんなでカラオケに行くことも多くなって、このころになってはじめて、自分が音痴であることを認識するようになっていった。
みんなは上手に歌を歌えていて、自分はうまく歌えていないのがはっきりとわかる。順番待ちのときにやっと選んだ曲でも、前奏が始まったあと、どのタイミングで歌い出せばよいかよくわからないし、しまいにはモニターに映し出されている字幕の歌詞を読み上げるだけになってしまうことも多かった。
なんでみんな簡単にリズムも音程もとれているのかまったく理解できなかったし、自分だけなぜできないのかもよくわからなかった。
だけど、カラオケでの歌の順番は公平に回ってくるから、次に歌う歌を必死に選ばなきゃいけない。いけないってことはないのだろうけど、そう思ってしまうほど、その時間がある意味、不安でもあった。

他の人が歌っているときは、周りの友人たちは盛り上がって合いの手を入れたり、一緒に口ずさんだりするけど、私が歌うと、音程もリズムもチグハグだから、どうしても周りが静かになる。その雰囲気の中、最後まで歌うのはけっこう大変だった。
また自分の番がきて歌っていると、仕方なしに隣の人と話をする人や、次の曲を選び始める人の姿が目に入ってくることもよくあった。周りの人の反応から、自然と気持ちが沈み込んでいってしまうのだが、こんな体験をしていくことにより、自分が音痴であることを肌で感じるようになっていったのである。
それでも当時は若かったし、仲のいい友人たちとのたわいもない時間であったから、歌が下手であっても、彼らの前で歌を披露することにそんなに大きな抵抗はなかった。
しかし、このときあたりから音楽や歌うことへの苦手意識が、自分の中に植えついていったのは確かだった。

人生の変化

20代の後半になると、自分が本当にやりたいことが見つかり始め、生きていること自体が少しずつ楽しくなっていた。

21歳で結婚をしたのだが、価値観が合わない人との結婚生活は、非常に厳しいものだった。その中でも少しずつ自分に合う仕事を見いだし、電気工事士として働いて5年くらい経ったころ、人生の転機に向けて、一つのきっかけが私に訪れた。

それは、通勤電車の中でパッと目に入ってきた、整体と気功の専門学校の広告だった。見た瞬間に心に広がるあの心地よさは、今でもはっきりと覚えている。
結局、それから迷うことなくその専門学校に通うことを決めた。夜間と土日のクラスがあったから、仕事を終えた後や休日を利用して通うことができた。休日がおのずと少なくなってしまったけど、まったく苦にならないくらいに整体や気功の授業は私にとって魅力的だった。

またその当時は、電気工事士として独り立ちをしはじめ、これからという時期でもあったけど、会社の社長には自分の気持ちを明確に伝えた。
仕事を終えた後、整体の専門学校に通いたいこと、そして、2年後には会社を退職し、整体の仕事に転職するということを。

社長の返事は、「わかった。いいよ。」と、予想に反して拍子抜けするほどの快諾であった。また、職場の親方や先輩もよく協力してくれた。当時は、トラックに乗って先輩たちと現場に赴くことが多かったのだが、現場の作業が終わると会社に戻る途中でトラックから降ろしてもらい、そこから電車で学校に向かうこともよくあった。

今思えば、このときの流れは追い風に乗るかのようでもあった。何の抵抗もなく飛び乗った風が、そのまま運んでくれたかのようで、自分で決めたことに対して、職場の人も含めて誰一人反対する人はいなかった。だからこそ、進む道に対して何の疑いもなく、そのまま進んでいくことができた。
専門学校に通い始めてからの2年は順調に、そしてあっという間に過ぎ去り、新たな人生の展開が始まっていった。

転職先は、渋谷のとあるクリニック。学校を卒業したとはいえ、整体の技術はまだまだ未熟だったのにクリニックに就職できたのは、本当に運がよかった。
今までとはすべてが違う職場で、慣れるまでに多少の戸惑いがあったけど、施術をすること自体は本当に自分に合っていたのだろう。すぐに職場の雰囲気に慣れていった。

多いときには、一日に30人くらいの施術をすることもあったけど、人の身体に触れ、自分の指や手のひら、ときには肘や腕を使って施術をしていくと、自分の持っているものが内側からどんどん引き出されていくようで、毎日が生き生きとしていた。

基本的に一人ひとりへの施術時間は10~15分くらいで短い。だからこそ、その短い時間でいかに余分な施術を省き、ピンポイントの施術をするかに集中するようにもなっていった。結果的には、それが自分自身の技術の向上にも役立った。

音痴を完全に克服した人生の物語。毎週月曜日に次の話を公開予定。


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