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雲仙・普賢岳の警告

地元スタッフ匿名座談会
テレビの何が問われているか

放送レポート112号(1991年9月/10月)

6月3日午後4時8分ーー。雲仙・普賢岳で発生した火砕流は、一瞬にして北上木場の集落を襲い、死者・行方不明者41人を出す大惨事となった。なかでも犠牲者の約半数にのぼる19人までがマスコミ関係者であったことは、過熱する取材競争のあり方に重い問題を投げかけている。このような大惨事は本当に避けられなかったのか。取材体制と報道姿勢に問われるべき問題はないのか。
5月中旬から雲仙噴火災害を追いつづけてきた地元のテレビスタッフに集まってもらって、テレビ報道の2ヵ月をふり返ってもらった。二度と同じ失敗を繰り返さないためにーーその思いをこめて語る、これは[雲仙・普賢岳の警告」である。(ききて・文責、編集部)

6月3日午後4時その時あなたは…

ー 大惨事をひき起こした問題の火砕流が発生したのは、6月3日の午後4時8分だったわけですが、そのときみなさんはどこにおられたんでしょうか。
A 私は、その日は社のほうにいて、仕事をしていた長崎市内の現場で、夕方のテレビニュースを見て知りました。
ー そのニュースを聞いたとき、どんなことを思いました?
A 不思議と驚かなくて、〈ああ、やっぱりな〉というのが第一印象でした。
ー ということは、大きな事故が起きる予感がすでにあったわけですね。
A いや、起こったこと自体はあまりに大きすぎてビックリしたんですが、すでに5月の下旬にケガ人が出てますし、取材競争は激しくなる一方でしたから、死者が出ても不思議はないくらいだとは思ってました。
B 私はその日ヘリコプターに乗ることになってたんですが、朝から天気が悪くて飛べないでいたんです。そして、午後になってようやく飛べる状態になったもんですから、まず赤外線カメラのテストをしたいということで、別のスタッフが乗り込んだんです。で、われわれは島原のグランドで待機してたんですが、突然あたりが真っ暗になったんですね、噴煙で。それに、どんどん雨も降り出して、「もうそこには降りられない」という連絡がヘリから入って、深江町のほうに降りることになったんです。で、そちらに来いと。
ー 島原のグランドからは、普賢岳は見えませんよね。
B ええ、ですから火砕流が起きたという連絡はヘリから入ったんですが、それが大きな事故につながっているとは思いませんでした。とにかく深江町のグランドに移動することにしたんですが、降灰と雨とで道路は大変な渋滞で、動きがとれない。深江町のグランドに行くのに1時間以上かかったと思います。
ー 空から見た火砕流の爪跡は、どんなでしたか。
B もう火の手はあちこちで上がってたんですが、民家は散在してますから、段段畑一帯が灰で白っぽく見えるなかに、燃えるものだけが燃えているという、そんな光景でした。
ー 多数の行方不明者がいるということは?
B いや、そのときはまだ知りませんでした。
C 私は当日は本社にいましたから、行方不明者の名前が次々と入ってくるたびに、これはちょっと厳しいなという気がしました。
ー 同時にスタッフの確認もされたわけでしょう?
C もちろんやりまして、系列局も含めて比較的に早い段階で全員の無事が確認できたようです。
D 私は、当日、現地にいたんですが、デスクから「とにかくたいへんなことになったので、すぐどこどこへ行ってほしい」と連絡が入ったんです。その声がとても緊迫した感じで、「たいへんなことって、なんですか」と聞き返せなかったんです。大きな火砕流が起きたということはすぐわかったんですが、ウチのクルーも行方不明になっているということは最初は知りませんでした。
ー お宅のクルーが行方不明だとわかったときは、どんな気持ちでした。
D 私は、絶対に彼らは生きていると翌朝まで思ってました。なぜなら、定点観測を行っていた地点のすぐ傍に避難場所を確保していて、それをシェルターと呼んでいたんですが、そこに隠れていると。翌朝になればかならず出てくると確信していました。
ー そのシェルターの話はあとでもういちど伺いますが、そこまで準備されていたというのは、すごいことですね。
E 私は2日前まで現地にいたんですが、交替で社に戻ってきて、当日は別の仕事で外に出てたんですが、社に戻ってきたところで大きな火砕流が起こったという話を聞きました。やがて、行方不明者の名前が次々と入ってくるようになるんですが、「まだ出すな」ということで最初に行方不明者の氏名を放送したのは10時頃だったと思います。
私自身、それまでに何度も現場に行っていましたから、「行方不明者」といっても、ちょっと連絡がとれないだけだろうと最初は思ってました。さすがに0時を過ぎても行方不明者の確認がとれないんで、もしかしたらと思うようになりましたが。
ー その日は徹夜ですか。
E ちょっと休みましたけど、半分徹夜ですね。で、翌朝遺体の捜索活動が始まりましたから、そのままずーっと。
D 翌朝の空撮の映像を見たときは、さすがに彼らは生きているという確信もゆらいで、やっぱり愕然としました。

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▲雲仙・普賢岳の火砕流の爪跡

恥ずかしいかぎりの火砕流対策

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▲土石流で埋まった水無川

ー さて、そこで6 月3 日以前の取材体制と安全対策について伺いたいのですが、5月段階の取材というのは、主に何に重点を置いてたんですか。
E この問題で、NBC (長崎放送)が5月14日の午後7時から1時間の特番を初めてやったんですが、「いま土石流がもっとも怖い」というのがそのときのテーマでした。そして、その翌日の未明に最初の土石流が起きたんです。
ー たしかにはじめの頃の関心は土石流に集まってましたよね。火砕流という言葉も知らなかったほどで。
C 最初は「溶岩の崩落」という表現を使ってましたし、火砕流ということがわかってからも、東京から現地に入ったレポーターなどは、最初の頃は「火石流」といってましたよ。
ー 火砕流を最初にキャッチしたのはいつですか。
D 5月24日です。この日の朝8時10分ごろFNN (フジテレビ系)の撮影ポイントで撮ったのが最初です。
ー 「溶岩ドーム」というのが普賢岳に出現したのが……。
C 5月20日ですから、それから4日後ですね、最初の火砕流の撮影に成功したのは。
E しかし、その日は午後からすごい雨になって、それまで中継ポイントにしていた水無川の天神元橋のところが危ないというので、ウチは夜になって深江町側に一度移したんですよ。翌日にはまた元のポイントに戻りましたが、危険なのは土石流という認識には変わりなかったですね。
ー 5月24日にFNNが撮ったものが火砕流だというのは、どうしてわかったんですか。
A そのVTRを何人かの学者に見せたところ、火砕流の実態を知る貴重な映像だといわれてはじめてわかったんです。で、火砕流とはなんだということになって調べてみると、外国では数万人の犠牲者が出たこともあるということがわかってきた。そこで、これは正確な情報をとらないまま出すとパニックを起こす恐れがあるということになって、実はその日の夜は放送しなかったんです。
B ということは25日ですか、「火砕流」という言葉が初めて放送に出るのは。
ー 新聞に初めて登場するのが26日の朝刊ですから、25日でしょうね。で、その翌日の26日には、火砕流で作業員が火傷する事故が起きているんですが。
E それでも取材の重点は依然として土石流でした。避難勧告は5月15日に第1号が発令されて以来、解除と発令を繰り返していたんですが、その頃、災対(島原市災害対策本部)が警戒していたのはやはり土石流だったんです。したがって取材の主な対象も、当時は川でした。
ー そうすると、土石流に対する安全対策というのはあったわけですね。
C 土石流というのは9年前の長崎大水害の経験もあって、どういうものかということは、だいたいはわかってました。ですからウチの場合は、土石流の取材については、「第1波はやりすごし、規模を把握してから取材するように」と言われてました。
ー 火砕流についてはどうでした。
E お恥ずかしい話ですが、ほとんどといっていいほどありませんでした。
ー 「ほとんど」ということは、少しはあったわけですね。たとえばどんなことが言われてましたか。
E 作業員が火傷を負ったときに、長袖のシャツを着ていた人はあまり火傷をしなかったということがあって、取材に出るときは、化学繊維を使ってない長袖のシャツを着ていけとか……。
B 地面にうつ伏せになって、鼻と耳を押えて30秒から1分間息を止めて待てと。で、おさまってから逃げろと。そんな話でしたよ(笑い)。
ー なんだか煙をやり過ごすみたいな話ですね。
C ですから、あんなに高温のものだという知識はなかったんです。
A 下に逃げずに横に逃げろという話もありました。
ー それはどうしてですか。
A 火砕流は下に向かってものすごいスピードで落ちてきますから、逃げるときは横に動いたほうがいいといわれていました。
C いずれにしても、あまりにも無知でしたよ、火砕流については。

シェルターまで準備したKTNが…

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▲各局のテレビに登場した普賢岳の模型

ー そうしたなかで、KTN (テレビ長崎)は避難場所まで確保していたという話ですが、やはり最初に火砕流を撮影したということもあって、火砕流に対する認識は、他よりはかなりあったんじゃないですか。
D その点でいえば、1つは取材のポイントにあったと思うんです。ウチが定点としたのは、各社が張り番をしていた地点よりさらに300メートルほど上に登ったところでした。なぜそこにしたかというと、他社が並んで張り番をしているところは危ないという話が間接的に学者から伝えられ、数ヵ所の取材地点の中からより安全と思われる高台を選んだから
です。しかし、いざ逃げるとなると、他社より300メートル上ですから、それに応じた対策が必要だったともいえます。
ー シェルターというのは、実際にはどういうものなんですか。
D タバコの乾燥庫です。私自身はその定点に行ったことがないので、実際にどんな建物かはよく知りませんが、聞くところによるとコンクリートかブロックで出来ているということでした。だから、万が一の場合はそこに逃げ込めばなんとかなるのではということで、持ち主と事前に話をして使わせてもらうことにしてたんです。熊本の系列局の人の話によると、阿蘇山の退避シェルターにも並ぶくらいの強さが多分あるだろうということでした。そこに逃げ込む訓練もしてたんです。
ー そこまでやってたわけですか。
A 車はカメラから15メートルの距離に避難道路の方向に向けて駐車し、すぐ発進できるようにしておくとか、他社が張り番をしている所を走り抜けるときは振り向かないで、一目散で走り抜けるとか、いろいろ決めてはいたんです。
ー 「振り向かない」というのはどういう意味ですか。
A あそこはいちばん危ないところだといわれていたことと、やはり各社が取材をつづけていれば、躊躇しますから、逃げるときは振り向かないと。
ー なるほど。
A それから、定点観測をやっているうちに、火砕流が起こる直前になると、虫や鳥や蛙の泣き声がピタッと止まるということもわかってきた。火砕流が起こる30秒くらい前になると、異様な静寂が訪れるんです。それで火砕流をきちんと撮れるようにもなったんです。
ー それはすごい観察力ですね。
D 実は、その定点も安全確保のため6月4日には無人監視カメラを取り付け終わる予定にしてたんです。
ー 火砕流事故のあった翌日に?
D そのために3日の日は、この定点と前線本部のある石川屋旅館との間のマイクロテストをやってまして、その技術スタッフ2人は、午後3時30分にテストを終えて定点を引きあげているんです。
A さらにいうと、火砕流を最初に撮ったのはFNNであるわけですが、それは5月23日から25日までの3日間、24時間体制でその定点に張りついているときに撮ったものです。しかし、火砕流が頻発するようになったものですから、夜間の撮影は26日から中止し、撮影にあたる者も、万が一を考えてアルバイトや他社のスタッフはそこに配置しないことにしてたんです。
ー 犠牲となった3人がいずれもKTNとその関連会社の社員だったという背景には、そういう事情もあったわけですね。
A ところが、前線本部のある旅館までいったん退いて、そこから天気カメラみたいな感じで普賢岳をねらっている間に、5月29日でしたか、夜に火砕流が起きて山火事が発生したんです。
B ありましたね、日テレ(日本テレビ系列)がその現場まで行って、足元で木が燃えている映像を撮ってました。
A ウチは引き揚げてますからもちろん撮ってなかったんですが、キイ局はそれが不満で、「他は撮ってるのに、どうしてウチにはその絵がないんだ」と。それで、また定点に戻ったんですよ、5月30日から。
B ウチなんかも立ち上がりの段階で遅れをとってましたから、そういうプレッシャーはかなりありました。それに火砕流に対しては無知でしたから、土石流の危険も考えて高いところにいればまず安心だという認識でした。各社が山張りをしていた地点が「いちばん危ない」といわれていたなんて、全く知りませんでしたね。
A ウチが定点を放棄して旅館に引き揚げた26日なんか、各社すごく並んでましたよ、あの地点に。
ー 遅れをとった他社としては、どうしても火砕流の絵が欲しかったんでしょうね。それで、つい山火事の現場まで登って行くことになるわけですが、『報道特集』の料治キャスターも、火砕流の先端まで登ってましたよね、あれはいつですか。
E 6月1日だと思います。
ー あれは問題にならなかったんですか、現場では。
C 当然、問題になりました。島原の記者クラプからは「危険なところに入らない」という申し合わせに違反しているという抗議を受けましたし、職場でも「バカなことをやって」とさんざんでした。次の週の『報道特集』(6月9日)で、料治さんは「無知とはいえ……」と弁解してましたが、当然ですよ。
D その一方で、「あんな年輩の人でも登ってるのに」といって現場のスタッフに迫る人たちもいたんですよ。
ー そうやって現場には「前へ前へ」というプレッシャーがかけられていたんでしょうね。
B それに、ANN(テレビ朝日系列)とNNN(日本テレビ系列)は、地元・長崎の系列局が開局して間もないこともあって、他より遅れた分だけあせりがあったと思います。
A 私も、ANNとNNNからは、いまに犠牲者が出るのではないかと思っていました。

明暗分けた張り番地点と当日の事情

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▲行方不明者を伝えるテレビの映像

ー そういう経過があって6月3日を迎えるわけですが、KTNで亡くなられた3人の遺体はどこで発見されたんですか。シェルターの中ですか。
D いや他社が張り番をしていた地点の近くなんです。
ー ということは、退避する途中だったということですか。
D そう思われます。問題の火砕流が起こる10分ほど前に、つまり4時前に大きな火砕流が起こったんですが、それを前線本部のウチのデスクが旅館から目撃して、無線で「大きな火砕流が発生したようなので、ただちに退避してください」と呼びかけているんです。で、「わかりました。退避します」という応答があったそうです。そして、4時8分に再度大きな火砕流が発生したのでデスクは再び退避命令を無線で伝えたんですが、そのときはもう応答がなかったと。
ー 振り向かずに突っ走れ、といわれていた地点で、振り向いたんでしょうかね。
D 遺体は1人がワゴン車の中で発見され、あとの2人は車外で発見されているんです。うちのクルーはいつも3人交代制をとっていて、常に1人は車内に待機することになっていましたから、各社が退避せずに撮っているのを見て、あるいはそこでもういちど撮ろうとしたのかもしれません。もちろん、そういうことも考えられるということでしかないのですが。
ー 一方、NBC(長崎放送)は全員が無事だったことから、新聞などでは、その取材体制がさかんに評価されていますが、実際にはどんな状況だったんでしょうか。
C だいぶ誤解があるのでここではっきりさせておきたいのですが、全員無事だったのは全くの幸運であって、それほど誇れる取材体制、安全対策をとっていたわけではありません。いまのKTNさんの話を聞いて、ますますその感を強くしています。安全対策においても、KTNさんはウチの数段先を行っていたと思います。
ー 新聞報道やTBSから流れてくる情報によると、九大地震火山観測所に詰めていた記者からの「危険だ」という情報を受けて、前線本部が4時頃、定点のクルーに撤退を指示したことでかろうじて難を逃れたといわれているんですが、これは……。
E かろうじて難を逃がれたというか、紙一重の差で助かったのは事実ですが、そんなに見事な体制だったわけじゃないんです。まず第1に幸運だったのは、各社が張り番をしている地点でウチのクルーもいつもは張っていたわけですが、その日は200メートルほど上に移動して観測してたんです。いつものように各社と並びで観測していたら、やっぱりウチだけ逃げるということはできなかったんじゃないでしょうか。
C 実際にも、4時前の火砕流で逃げ出したあと、各社が張り番をしているところまで下ってきて、また引き返してるんです。各社が冷静に撮っているのをみて「こんな大きな火砕流を前にして引くのはしのびないと思った」と本人は言っています。
ー おそらくKTNのクルーもそう思ったんでしょうね。
E ウチがもう1つ幸運だったのは、土石流を張っているもう1つのクルーが水無川沿いにいて、その日は山張りのクルーが帰りにその川張りのクルーをひろって、車に乗せて帰ることになっていたんです。で、当時は土石流のほうが危ないといわれていて、当日は雨もすごかったですから、山張りのクルーとしてはそちらが心配だった。そこで、川張りのクルーを無線で呼ぶんですが、応答がない。周りを見ると、北上木場地区周辺が薄黄色の灰で覆われていて、彼らの目や鼻や口にも灰が入ってくる状態だったそうです。それで、もう限界だと思って車で下りながら、それでもまだ撮影しているんですよ。
ー 撤退命令は、どこで聞いたんですか。
E 農業研修所を通り過ぎたあたりということですから、川張りのクルーと合流することになっていた地点より少し手前です。ところが合流地点に川張りのクルーはいない。無線の応答もない。で、車から降りた途端にバリバリっという音がしたといってます。
ー 「フルゲン、逃げろ!」と絶叫するところがテレビでも放映されていましたが、あれが……。
E その場面です。ところが、周りが静かになったというので、また上に戻ってるんです。その途中で火傷を負った消防団員やフロントガラスが割れた車などが下りてくるのを見て、はじめてこれはたいへんなことになったと。気がついたら顔が火照るほどあたり一面が熱くなっていたそうです。
ですから、撤退命令を聞いて逃げていたんでは絶対に助からなかったわけで、九大の観測所からの情報を受けてどうのというのは、TBSがあとでつくったストーリーにすぎないんです。
ー それにしても、ほんとに紙一重だったんですね。
C 何が起こったのかわからなかったから、彼らもそのときは恐怖感がなかったそうですが、あれから毎日のように夢を見るそうです。
E 各社が一斉に山張りをしている地点を通り過ぎるとき、レポートしている記者を見かけたと、ウチのクルーは言ってます。おそらくそれがテレビ朝日の城詰さんだったのではないでしょうか。
A ANNの連絡体制というのは、かなり悪かったようですからね。
B 無線で前線本部と直に連絡をとることができなかったんです、当時はまだ。
ー どうやってたんですか。
B まず本部がポケベルで定点のクルーを呼び出し、それを受けて臨時に設置したガラ電で定点側が本部に電話をかけて問い合わせるという、そういうやり方でした。そのガラ電がついたのは、6月1日ですからね。
ー ガラ電というのは、電柱からじかに線を引いて……。
B そうです。ですから、NBCやKTNさんのように、「ただちに退避してください」なんて命令をすぐに伝えることすらできない体制だったんです。そういう意味で、ANN の安全対策というか、連絡体制には大きな欠陥があったと思います。

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▲溶岩ドームの誕生から火砕流へと、テレビの関心は普賢岳にあつまっていた

前線本部撤退? 指揮はどこが?

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▲ホテルの1室に設けられた前線本部

ー 6月4日以降の取材体制は大きく変わったんでしょうか、安全対策を考えて。
B ウチの系列でいえば、KBC(九州朝日放送)などは「島原市内には一切入るな」ということになっています。もっとも、それにかわる監視カメラが必要だということで、2台設置していますが。
D ウチも事故をかなり深刻にうけとめていて、夜間の取材はしないことにしてますし、ヘリにも乗らないことになっています。それから、ヘルメットなんかも最初は全員に行き渡ってなかったんですが、どんどん増やして、かならずかぶっていけという指示はしています。もっとも、夜間の取材というのは、系列全体の応援体制の中でウチだけやらないというわけですから、きつい面もあって、6月30日の土石流のときなどは、暗黙の了承でやったりしてるんですが、翌朝見るとゾッとする光景なんですね、土石流の跡というのは。
ー 前線本部を島原から外に移すということもやられましたよね。
B ANNは国見に移しました。
ー NNNが諫早に移して……。
D ウチも「半島全体が危なく、NHKも撤退した」という情報が入り、3分の1程度を残して本隊は諫早に移動し、また島原に戻るということを1日に2回やったことがあるんですよ。
C JNNもいちど撤退したことがあるんですが、島原市の住民は避難をせずにそこで生活をしているのに、報道陣だけが逃げ出していいのかということになって、それ以降は、住民が避難する前に撤退することはしないということで、いまも本部は島原市に置いています。
ー 監視用無人カメラはみんな無傷なんですか。
E ウチのカメラはやられました。
ー 6月3日の火砕流で?
E いや、そのときはまだ無事だったんですが、8日の火砕流で完全に。
ー どのくらいするもんなんですか、一式。
C 3500万円。
ー ANNの連絡体制は、6月3日の事故のあとは改善されたんですか。
B 連絡がとれない地域はNCC(長崎文化放送)の無線機の場合が多いということがわかったのと、系列内でKBCなど3局が同じ波をもっていることがわかって、いまはその波を共有して使うようにしています。それが大きな変化でしょうね。
ー ところで、系列局の混成軍の指揮は、どこがとってるんですか。
E JNNの場合は、部隊の応援体制についてはキイ(TBS)がメインでやるけれども、現地でのクルーの指揮というか取材配置については、現地に詳しいということもあって、NBCのデスクが決めていくということでやって来ました。もっとも、とても手に負えなくなって、TBSの方に少しずつ移していきましたけど、原則としては、地元局が取材体制の指揮をとるということでやってきています。
D FNNは全く逆で、最初の土石流が発生してから何日か経った頃、フジテレビから人が来て、連絡、オンエア体制を表に書いて決めてしまいました。その時点で、われわれは管理職も含めてその人の指揮下に入ったという感じでした。
ー 現地本部が?
D いや、そのときはまだ前線本部は置いてなくて、長崎の本社で指揮をとっていたんです。
ー では、その頃から、ギクシャクしてたんですか。
D 本社に帰ると、雰囲気は悪かったですね。
ー 現地ではそれほど悪くもなかったんですか。
D 取材の割り振りについての不満とかは多少ありましたけど、取材をやってるうちはみんな一生懸命ですから、そんなに大きなギャップはなかったと思うんです。ただ、ワイドショーにはまいりました。彼らは全くの別行動ですから、何をしているかわからないんです。
A それと、ニュースもキイ局のためだけに力を注ぐ体制でしたから、現場にはその点での不満が強くありました。最近はそうでもないんですが、かつては毎朝6時過ぎから始まって夜11時過ぎまで、途中ワイドショーも含めて連日、中継につぐ中継でしたから、本当にキツかったんですよ。そのうえ、東京は24時間放送してるもんだから、深夜の2時とか3時の番組が、中継やるって言ってくるんですよ。さすがにそれは断わりましたけど、そういうことを平気で言ってくるんです。
B ANNの場合は地元の局が開局間もないものですから、形の上では地元局がイニシアティブをとることになってるんですが、そうはいかないわけです。で、いちばん近い福岡のKBCとキイ局のテレビ朝日と地元NCCの混成軍で、ヘッドの話が現場につながりにくいということは、現場の記者やカメラマンがこぼしていました。
C そういうギクシャクした感じというのは、多かれ少なかれ、各系列に共通してあると思うんですが、私がここであえて問題にしたいのは、その根底にキイ局と地元局の報道姿勢の違いというものが決定的にあるということです。そして、そのことをはっきりさせないと、今後につながる生きた教訓も出てこないと思うんです。

愛情感じられないキイ局の報道姿勢

ー いまの指摘は非常に大事な点だと思いますが、具体的な事例をあげて問題点を明らかにしてくれますか。
C ウチの場合でいうと、まず最初に、『ブロードキャスター』事件というのが5月25日に起こるんです。これは4月から始まったJNNの新番組なんですが、この日は雲仙特集ということで、三原山の噴火の絵を非常にセンセーショナルに使って、それを雲仙の映像として出してしまったんです。つまり、いまに雲仙でもこんな大惨事が起きますよ、という非常に興味本位の報道姿勢、これにまずカチンときたんです。もちろん抗議もしました。そして、例の『報道特集』が6月2日に放送されて、3日の事故が起きた。あのとき紙一重で助かったことは先ほど話に出たので省略しますが、TBSが盛んに言っているような自慢話なんか
全くないんです。どうしてあんな話になるのか、紙一重で助かった本人の話を聞けば、わかることなんですがね。あのストーリーも系列間競争の構図から出たものだと思います。亡くなった方や他系列への配慮も何もないという気がします。
E 絵の使い方にしても、「あれは絶対に使ってくれるな」と言っているものを、モロに頭から使ってましたしね。
ー どの絵ですか。
E 頭から灰をかぶって、火傷した人が逃げてくる絵があったでしょう。
C それに遺体も平気で出してましたしね。何というか、絵に愛情が感じられないんです。
A FNN の『スーパータイム』でも似たようなことがありました。『スーパータイム』というのは、雲仙の本記があって、中継があって、そのあとにまた色モノのコーナーがあるんですが、例の事故があった翌日のそのコーナーで、火砕流の中で犬が助かったという話をたっぷりとやったんです。人が40人も死んだり行方不明になっているというのに、こういうのを放送する神経がわからない。
ー でも、そういう取材配置をみんなでやるんでしょ?
A いや、そういう取材をする人というのは、ちょっと顔を出したと思ったらすぐいなくなって、どこに行ってるか全然わからないです。こっちは、そういう人たちの心配までせんばいかんですよ。
E ワイドショーもそうですね、全く単独で動いてますから、つかめないんですよ、動きが。
ー ワイドショーでの雲仙のあつかいについては、いかがですか。
E これもいろいろとありました。たとえば、「昨日はこの時間に火砕流の決定的な映像をナマでお見せできませんでしたけれども、きょうは……」というような喋りが平気で飛び出すわけです。
C そうかと思うと、雲仙の火砕流の映像を見せておいて、「いやすごかったですね、次はもっとすごい絵をごらんください」といって大リーグの乱闘シーンを見せるんですよ。こんなつなぎ方ってありますか。
B とにかく6月3日までのワイドショーの論調というのは、「もうすぐ大噴火が起こって山が崩壊します。それはいつでしょうか」という感じですよ。「楽しみですね」とまでは言わないけど、「あしたをお楽しみに」というトーンなんですよ、あつかい方は。
D 要するに、大自然の壮大なドラマを楽しむ感じが強くて、そこに住んでいる住民のことなんか抜けてしまっているんですよ。
E カメラのクルーが絵を撮って本部に戻ってくると、キイ局の人がこう言うんですよ。「おいしい絵はありますか」って。その人のいう「おいしい絵」って、住民にとってはとてもたいへんな災害を意味しているわけでしょ。そのことばを聞くたびに、地元の局の人間とはまるで興味のもち方が違うことを思いしらされるんです。
A それで、そのおいしい絵を撮ってくると、「よし、飲みに行こう」って誘われるんですが、とてもその気になれないですよ。
C 要するに片田舎での出来事だと思って興味本位にしかあつかってないんですよ、キイ局の連中は。「楽しくてしょうがない」なんて言葉を平気で口にする。その感覚がわからないですよ、地元の人間には。
ー うーん、そこまでギャップがあるとは思いませんでした。
A あるとき、住民の方から「お前さんら煙のもくもくばっかり撮ってるけど、避難民の苦しみを紹介してくれよ」って言われたときは、本当にこたえました。
C 「のぼすんな」だよね。
ー どういう意味ですか。
C ふざけるなとか、なめるなとか。
E 調子にのるなとか、そんな意味の言葉です。

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▲島原市内の体育館に避難した住民への取材は、
その後厳しい制限をうけることになった

住民はなぜマスコミを拒否するのか

ー テレビの報道姿勢にいちばん敏感だったのは、なんといっても地元の人たちではなかったかと思うのですが、そのへんは取材されていていかがですか。
B 6月3日の火砕流で大勢の犠牲者が出てからというもの、避難地域の人たちの反応というのは大きく変わりました。避難所の入口に出ている「報道関係者立入禁止」の貼り紙がそれを象徴していると思います。
E 避難所の取材というのは、いちばん厳しいです。棒でもって追い返された者もいますし、襟首もってつまみ出されたスタッフもいます。
ー 厳しくなった原因はどのへんにあると思いますか。
D いろんな原因があると思いますが、やはり無神経な取材の積み重ねがそういう態度に住民を追い込んでいったんだと思います。
ー 無神経なふるまいというと、たとえばどんなことですか。
D 避難所というのは、たとえば体育館だったりするわけですか、避難してきた人たちにとってはそこが自分たちの仮の家であるわけです。ところが取材する側には体育館というイメージがあるものですから、濡れたレインコートを着たままですーっと入ったりする。
それから、体育館とはいえ仮の宿ですから、畳が敷いてあって、布団があったり食器があったりするわけですが、そういうのをついまたいだりする。そういうのが非常に嫌われたようです。
A 静かに入ってもそうですから、各社が一斉に入って行ったときなんかたいへんですよ。ライトは当てるは、布団は踏みつけるは。
C そういうこともあるけど、やっぱり3日の火砕流で大勢の人が死んだのはマスコミのせいだと思ってる人が多いですよ、とくに北上木場の人たちは。
B 消防団とか自治会の人はとくにそうですね、犠牲者を出しましたから。
E その伏線になっているのが、例の日本テレビの電源無断使用事件ですよ。
ー 無人監視用カメラを設置するために、避難して誰もいない家から無断で電源を引いたという事件ですね。
C あれからですよ、自治会や消防団の人が見回りに戻ったりして、そのために事故にあったという思いが地元の人にはある。
E 警察もあれ以来、マスコミに対しては非常にきつく言うようになりました。「住民の方々の感情が悪くなってきているから、畑の中に入らないように」とはっきり言われたこともあります。畑に入ってなくて、その角のところに立ってたんですが、それでもダメだと。
C 本来は、あのへんの方というのはとても親切で、温厚な人たちばっかりなんですよ。それが避難所の前に見張りを立てて報道陣を寄せつけないというのは、よほどのことです。そこのところを考えて本当に反省しないと、地元の局としてはやりきれません。
ー でも、東京で現場の人の話を聞くと、先ほどの日本テレビの電源使用事件にしても、不在だったので「断り書き」を入口の扉に貼りつけて「あとでお礼はします」と言ってるのだから、いいではないかという意見は、意外と多いんですよ。
B 「不在」たって、避難しているわけだから当然で、了解をとってから使うというのが常識というものでしょう。
A だから全くわかってないんですよ。ちょっと庭先に入ったくらいで何が悪いと東京の人は言うかもしれないけど、地元の人は「豚小屋に勝手に入って病気でもうつされたらたまらない」と本気で心配してるんですよ。だから「誰かが縁側で寝てた」なんて話を聞くと、もう居ても立ってもいられなくて見回りに行くんです。
C 田舎でのことという意識がそうさせるんですよ。自分の家に勝手に入られて、電源使われたら誰だって怒るでしょう。東京のマンションでそれをやるかと聞きたい。
ー 「のぼすんな」ですか。
C そう、のぼすんな、ですよ。
E そういう住民の気持ちを代弁するような記事が『島原新聞』という地元の新聞に出てましたので、ちょっと紹介しておきます。
〈「ねぇーどう思いますか?」。睡眠不足の赤い目をした島原市災害対策本部詰めの職員A さんが、一時期と比べて極端に少なくなった報道各社の席を見渡してこう嘆いた……。
「彼らは『危険だから入らないで』と言う時には我先に入っておきながら、あの大惨事の後は、まるで『島原半島全滅』みたいな論調のニュースを流しに流して、最近では避難対象地域外に構えた取材の前線本部も北へ北への大移動。これでは市民の皆さんも不安がって続々と自主避難するはずです。安全とされる市中央部でも今や引っ越しが流行みたいになってしまいました。ゆゆしき事態です……」。A さんは憤まんやる方なし、といった表情でまくしたてた〉と。
C まさに、そういう感じだと思いますよ、残された住民は。
ー マスコミが地元のタクシーを全部チャーターしたために、一時は市民がタクシーを利用できないということもあったようですが。
B あったかもしれませんね、自分たちもタクシーが全くチャーターできないことがありましたから。それに、町で拾おうと思ってもまず拾えませんからね。
ー 島原には何台あるんですか、タクシーは。
E 96台です。
ー 1社が10台チャーターしたとしても、10社で満杯ですか。病人を病院へ運ぶタクシーがなかったという話を聞きましたが。
E われわれはそういうことも考えて、長崎からチャーターしたりもしたんですが……。
B 外からくれば、やはり地元の地理に詳しいタクシーが便利ですからね。そういう問題を住民との間でひき起こしていたかもわかりませんね。
D ただ、ここへきて避難生活をしておられる方たちの間にも少し変化が出てきていて、自分たちの窮状をマスコミに訴えたいと思っている方もいるんです。
C そういう変化は確かにあります。取材を拒否されて引き揚げようとしたら、若い奥さんが寄ってきて、「あの人はああ言ってたけど、皆さんが撮ってくれたことで、遠い親戚にも安全だということがわかった。そういう役割もあるんだから」と言われたんです。それ聞いて、僕らにもできることがまだ少しは残ってるなと思いました。

災害報道は地元局主導の原則を

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▲島原市役所内に設置された災害対策本部

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▲島原城内の「自衛隊報道センター」

ー 普賢岳ばっかりを追っかけてたときには見えなかったものが、住民の生活に目を戻すことで見えてきた、ということでもあるじゃないですか。
E 結局は「災害報道とは何か」ということに行きつくんです。そして、この問題はつきつめて考える必要があると思うんです。その点でいうと、火砕流とか土石流といった自然現象は、私はハードだと考えたらどうかと思うんです。で、そこで暮している住民の生活をソフトとして考えるわけです。
そうすると、各社はソフトで大いに競いあえばいいわけで、ハード面は共同利用してもいいんじゃないかと思います。つまりは共同取材です。そうすれば、今回の事故だって最小限にとどめることができただろうし、もっと安全な方法をとったと思うんです。それに、ソフトに目を向ければ、住民がどんなにたいへんな思いをしているかということも理解できて、もっと違った報道姿勢をとることもできたと思うんです。
C そうなれば、平気で遺体を出すなんて愛情のないこともしないでしょう。
ー たしかに東京の視聴者の関心は火砕流に向けられていて、住民がどんな生活をしているかについては、関心ないというか、知らないんですね。
B 大自然のドラマに興味をもつというのは、東京の人に限ったことではないでしょうが、マスコミが必要以上にそれだけをあおっていることはたしかです。いまにも島原半島は全滅する、といわんばかりの論調でしたからね、一時は。
ー そういう報道姿勢というのは、大島の噴火報道ですでに色濃く出てたんですね。みんな花火を見るように三原山の噴火をみて、住民の避難生活なんかはどこかに飛んでましたよ。
C 実は雲仙も、そこがいま問われていると思うんです。被害を受けているのは島原市や深江町だけじゃなくて、島原半島全体、ひいては長崎県全体なんです、観光客は激減してますから。ですから、住民の立場にたてば、「復興」こそがキーワードなんですが、そういう話にはキイ局は全く関心を示さない。
A いまもって火砕流ですからね、求めているものは。
D そういう意味でも、災害報道というのは地元の局がイニシアティブをとるべきだと思いますね。われわれはこれからもこの地に腰を据えて、ここの住民と一緒に仕事をしていかなければいけないんですから、そういう責任をもっている者こそが指揮をとるべきです。
E それと、地元局を中心にしたハード面の共同取材というものを是非考えてほしいと思います。
B さらに言えば、そのハード面の取材のマニュアルをつくる必要があると思うんです。地元局を中心とした統轄デスクや連絡体制から現場での対応にいたるまで。たとえば、現場で危険だと判断したときに、機材を放棄して撤退してもいいということを明確にしておくとか、そういうことを徹底させておく必要があると思うんです。

ー 全国から現地入りしたスタッフに書いてもらったアンケートの中にも「災害報道にスクープは必要なのか」という主旨の指摘がありました。「災害報道とは何か」という問題も、つきつめていくとその問題にも突きあたるのではないかと思います。激しい系列間の取材競争があるだけに、問題は単純ではないとは思いますが、「災害報道は地元局のイニシアティブで」という指摘とともに、今後大いに議論を深め、検討していく必要のある問題提起だと思います。
 どうも、長時間にわたる討論ありがとうございました。

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