長崎市「性暴力」訴訟、勝訴確定! 〜取材先との支配的な関係性を判断〜

放送レポート298号(2022年9月)
吉永磨美 新聞労連前中央執行委員長

メディア労働者全体に影響

 長崎市の原爆被爆対策部長(故人)から2007年、平和祈念式典について取材中に性暴力を受けたとして、女性記者が長崎市に損害賠償などを求めた事件の裁判で、2022年5月30日長崎地裁(天川博義裁判長)は、原告の主張を認め、同市に約2,000万円の支払いを命じる判決を言い渡した。
 これを受けて、長崎市は6月7日、判決を受け入れ、控訴しない意思を示し、勝訴が確定。さらに市は7月13日、市長から原告の女性記者に対して直接謝罪した。
 新聞労連は2019年4月の提訴以前から組合員である女性記者を支援するため、活動してきた。新聞労連としては、この性暴力が業務中に起きた人権侵害であること、そして「報道の自由」の侵害にあたり、公権力との関係性にも影響を与える、メディアの労働者全体にとって重大事案だと受け止め、勝利に向けて運動を展開してきた。また、この裁判から、今日のメディアが抱える構造的課題が浮かび上がっている。

長崎市の不誠実な対応

 事件の起きた2007年7月は、自民党内で郵政民営化に反対した造反組の復党問題や閣僚の不祥事が相次いだため、政治情勢が流動化していた。7月29日の参議院選挙では、自民大敗と、参議院議長が戦後初めて野党から出ることが予想されていた。
 その年の8月9日の長崎平和式典には参議院議長の出席が決まっており、議長に直接取材するチャンスととらえた女性記者は、同日に取材が可能かどうかを探るため、当日の動向を聞き出そうと原爆被爆対策部長を取材し、その際に性暴力を受けた。その後、女性記者はPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断され、休職。この事件について、市長や市が部長に聞き取りをしている中で部長は退職届を出し、直後に自殺した。
 さらに女性記者を苦しめたのが、一部の週刊誌報道やネットの書き込みなどによる記者へのバッシングだった。長崎市会計管理者の市幹部(当時)が週刊誌やスポーツ紙などの取材に応じて、被害者である記者と部長が「男女の仲だった」という虚偽の風説を流布させ、記者に二次被害を負わせた。記者は体調を崩し、入退院を繰り返した。
 周囲の支援を受けて、記者は09年には日本弁護士連合会(日弁連)に人権救済を申し立てた。その後、長崎市が部長の人権侵害などを一部認めながらも、記者の受けた一連の被害について金銭的要求を含め一切の請求権を放棄しないと謝罪に応じない姿勢を示すなど、不誠実な対応を続けていたため、記者が提訴するに至った。
 今回、長崎地裁は、取材記者に対する公務員の職権濫用による性暴力の事実を認め、「性的自由を侵害するもの」として違法と判断。情報を出す側として、職権としての情報コントロール権を持つ公務員が職務として取材に応じ、支配的な側面を持ち得る中で起きた事件だということが認められた。公権力と報道の関係を語る上で画期的判決といえる。裁判所は被告の長崎市に国家賠償法上の責任があると判断したのだ。

取材中に性暴力を受けた

 原告団が判決前に掲げていた訴訟のポイントが4つある。①市幹部が職権を濫用して行った記者に対する性暴力②性暴力と職権乱用を隠ぺいするために「強かん神話」を使うことによる記者への責任転嫁③風説の流布を利用した市側の職権濫用と行政の情報管理④風説の流布に加担したメディアの問題点と記者の働き方や報道の自由――だ。
 この事件で重要なのは、女性が性暴力を受けたという事実はもとより、取材中に公権力から暴力を振るわれた構図があることだった。①については「性暴力の有無」と「部長の性暴力が公権力の行使なのかどうか」が争点だった。原告側は「記者である原告にとって部長は取材対象でしかなく、部長は取材機会に、情報を握る立場、権限を濫用して原告が運転する車に乗り込み、加害現場まで運行させ、話を聞かせてもらいたいと要請する原告に性暴力をふるった」と主張していた。
 これに対して、被告の市は「プライベートな男女の関係」だと主張し、職務上の行為を否定していた。記者は明確に取材を申し込んでおり、部長が取材に応じた過程で行われた行為だった。まさにこれについては、長年、黙らされてきた記者が取材先から受けてきたセクハラ、性被害と重なる。
 裁判所は、女性記者に対する公務員の職権濫用による性暴力の事実を認め「性的自由を侵害するもの」として違法を判断した。メディアと取材先との関係性を考えるうえで、画期的判決と位置付けられる。結果として、記者が取材中に性暴力を受けるということは「報道の自由」や国民の「知る権利」の侵害であることも認められた。
 情報を出す側として、情報をコントロールする権限を持つ公務員。裁判では、その公務員が職務として取材に応じ、記者に対して支配的な側面を持ち得る中で起きた事件である、と捉えられた。
 判決では、「取材の協力を求めて連絡してきたことを奇貨として、協力するかのような態度を示しつつ、拒否しがたい立場にある原告に対して、執拗に指示して加害場所に入った」と認定している。公務員は、職務上得られた情報の出し方を立場上差配することができる。取材する側はそのコントロールを受けやすい立場であることが認められたのだ。「報道の自由」や国民が「知る権利」を行使するために取材する立場であることを標榜する報道機関にとって、意義深い判決だ。

▲勝利判決を伝える新聞労連の仲間たち(22年5月30日、長崎地裁前)

公権力との対峙を考える

 これまでも記者は公権力を相手に「特ダネ競争」を強いられ、翻弄されてきた。記者は少しでも早く、多くの情報を得るため、日夜、取材先との信頼関係を結ぼうと必死だ。そういう中で、記者への性暴力、セクハラの被害は長きにわたって隠されてきた。
 取材における抑圧的な関係性は、長崎市と原告の女性記者にとどまらない。どの公権力と報道機関でも起き得るものと考える。セクハラ被害が矮小化、場合によっては被害事実が疑われることもあったが、被害自体が、報道機関と公権力との関係性がまず構造的に存在し、その中で職権の濫用により起きたものだと認められることで、メディアの仕事における普遍的な問題だということが位置付けられた。警察・検察、行政機関、政治家など、公権力を相手に情報を得て書いていく仕事について、取材先との間で支配的な「関係性」「構造」が生まれやすいということが、メディア自身が自覚することが望ましいことは言うまでもない。
 本訴における21年10月の証人尋問では、部長が複数の社の記者を集め
て、飲食店での懇親会を複数回開いていたことが明らかになっている。女性記者の同僚の証言によると、当時部長は特定の社に限らず、地元記者にとって重要なネタ元としての公務員の立場にあったことがうかがえるものだった。女性記者も懇親会に誘われていたが、日常的な部長からの電話やメールに対して嫌悪感を抱いていた。そのうえ、業務上で取材を申し込んだところ、電話先の部長から「来い」などの声をかけられ、市内の繁華街の路上に呼び出されたのだ。このような状況は、特に記者の仕事では珍しくない。
 メディア業界としては、訴訟を通して、取材先からのセクハラ、性暴力が、公権力との間にある抑圧的な関係性の中で起きた被害であるという認識を深めることで、より一層、公権力との対峙の仕方を考えるきっかけになる。新聞・通信社に限らず、メディア業界全体の記者教育や取材現場において、この訴訟が投げかけたものを生かしていかなければならない。

「強かん神話」を全否定

 今回の訴訟における弁論活動において、新聞労連組合員による証言や資料提出などの側面支援も行われた。労働組合の仲間たちが、原告が取材でたどった道を実際に経験して原告女性記者の立場を弁明したり、多くの女性記者が受けた取材先からのセクシュアルハラスメントなど性被害の告発文書を証拠として提出したりした。また、常態化した取材中のセクハラ被害、記者の働き方、公権力の関係性について、新聞労連の代表として筆者自身も陳述書2点を出している。日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)などが2018年や2019年に実施したハラスメントに関するアンケート結果も提出し、構造的に被害が起きやすい、誰しもが遭うかもしれない問題であることを示す証拠により、原告の訴えを後押しした。 
 裁判の中で、メディアの労働組合、職業人として報道機関の仕事を説明することが求められ、取材現場が抱える構造的な問題をあぶりだすことにもつながったといえる。それは、メディアで働く労働者が、自覚的に自らの仕事の現場における構造的な問題を直視することにもつながった。
 さらに、裁判で原告側は、市側が「男女の仲だった」「プライベートだった」と主張することで、公権力の行使の否定に結び付け、公権力による犯罪の隠ぺいにもつながった、とも主張してきた。また、原告は一部の週刊誌などによって虚偽が流布され、二次被害を受けた。市幹部による証言を基にした虚偽の流布について、裁判所は、市は二次被害が予見できる時には防止すべく関係職員に注意する義務があり、これを怠った、として市の責任を認めた。
 長崎市関係者が週刊誌記者へ「合意の上での関係」などの事実無根の虚偽を提供し、原告の二次被害を拡大していった。それを受けて、一部の週刊誌やスポーツ紙など(提出した証拠だけでも11社分)が風説の流布を次々と拡散させていった。その後、インターネットに原告の女性記者を中傷する声が出回り、一般社会に定着した。
 原告側は、この風説の流布による二次被害が、市側にとって有利となる暴力のもみ消しと、原告記者への責任転嫁に結びついたことを指摘してきた。また、これが公権力行使の否定に結びつけ、公権力による犯罪隠ぺいにもつながった、と指摘している。
 加えて、女性蔑視など差別や偏見による「強かん神話」に乗じて、市関係者が二次被害を助長したばかりか、市側は訴訟の中でも原告の落ち度を指摘していた。裁判所はこの市側の差別的主張を認めなかった。
 強かん神話とは「加害者、性的暴行に関する偏見や固定観念(ステレオタイプ)に基づく誤った信念」で「若い女性だけが被害に遭う」「加害者は見知らぬ人が多い」「抵抗すれば被害に遭わなかったはず」などといった差別的概念だ。
 市側は「なぜ警戒していた加害者に深夜遅くついていったのか」「なぜ助けを求めたり、逃げ出せなかったのか」――といったような求釈明を出すなど、「強かん神話」に依拠した姿勢であったことは明らかだった。「強かん神話」による市側の主張に対する裁判所の全面否定の判断は、偏見をもたれ尊厳を傷つけられた性暴力やセクハラの被害者や、さまざまな形で虐げられてきたハラスメントの当事者、労働者への後押しが期待できるものだ。

懐疑的に注視する姿勢を

 この訴訟を振り返ると、女性の性暴力被害がなかなか表出しにくい状況にある中、当事者の勇気ある告発、訴えが社会を変えるきっかけになったことの功績は大きい。そして、新聞労連としては、あらためて自分たちの仕事について、どのような問題性があるかについて自覚し、変革する必要があるということに気づかされた闘いだった。
 社会におけるメディアの役割は、その1つに、市民の「知る権利」にこたえる、市民の目となり耳となり、多様な選択肢をもって、市民が主体的に議論することに資することがある。
 SNSなどでメディアが「マスゴミ」と称され、一部のメディアが権力との癒着について疑われているような意見も散見される。メディアが実際には癒着する気はなくても、世間の一部からそう見られているのは事実だ。
 このような視線を投げかけられ、信頼を失いかねないメディアは、仕事の特性上、当たり前のごとく、システマティックに生み出される支配構造の中で、起き得る問題が多々あるということを自覚すべきだろう。メディアはこれまで、この支配的な構造について、あまりに無自覚だったが、それによるひずみでもある、セクハラ被害などを長年受けとめずに来ていたのが何よりの証拠だ。
 この裁判では、社会全体が「情報の運用」が特権を生みやすいということに気づかせてくれた。情報は一部の特権を持つ者によって振りかざされるものではない。だからこそ、「報道の自由」「知る権利」はメディア固有の権利ではなく、市民の権利なのだ。
 今回の裁判でも明るみになった、見えづらいけれども、しっかりと存在する、支配的で抑圧的な「関係性」「構造」。それらは公権力とメディアの間だけに存在するものではなく、あらゆる場面で存在しており、その抑圧下で苦しんでいる人がいる。労働組合など個人の権利を守る社会的組織は、まだ気づかれていない、不可視な「関係性」「構造」を注視し、あらゆる常識や社会規範、不文律について懐疑的に注視する、問い直す姿勢を持つことが肝要だと考える。
 特にメディアや労働組合は、その社会的役割からも、特権を生み出すものは何であるかについて絶えず考察することが期待されている。同じ仕事をしている仲間だからこそ、当事者が抱える構造的な抑圧性を説明することが可能だ。この裁判から得られるさまざまな教訓が、今後、メディアや労働組合、性被害を訴える訴訟や市民活動に生かされることを期待したい。

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