重度身体障害者だから考えたい……「合理的配慮」とは何か?
伊是名夏子氏の一件は、「合理的配慮とは何か?」ということをあらためて考えるきっかけになった。
そもそも、合理的配慮とは何なのだろうか。外務省が公表している「障碍者権利条約」第2条では、合理的配慮は次のように定義されている。
「障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものである」
要するに合理的配慮とは、障害者が障害をハンディとせずに暮らしていくために必要な配慮であり、公共のサービスなどを利用する際に障害者にとって壁になるようなものがあればそれを取り除いていこう、というわけ。
日本のバリアフリー、ノーマライゼーションはこの条約を根拠としており、公共交通機関および企業には無理のない範囲での合理的配慮が努力義務として課せられている。
身体障害を持つ電動車椅子ユーザーとして暮らしていると、必然的に、「合理的配慮」を受ける場面が多くなる。
近所のコンビニで買い物をする。好きな商品を手に取ることはできるが(届く範囲であれば)会計まではできないから、レジまで行って店員さんにお金を払うのを手伝ってもらう。電子マネーが使えるところではSuica、そうでないところでは現金で支払うのだが、いずれにせよ、人の手を借りなくてはならない。
Suicaはスマホに入れているし、現金が必要になる場面にそなえて封筒に3000円ほど入れておき、文字盤のケースに入れておくことにしている。商品が手に届かない場所に会ったり、まとまった買い物をしたりするときには前もってスマホのメモ帳に「買い物リスト」を保存しておき、それを店員さんに読んでもらうこともある。
あるいは、映画館。今はコロナ禍なので行く機会もぐっと減ったが、コロナ前は週に2本は必ず映画館で映画を観ていた。
夏場の暑い時期には早めにロビーに行ってチケットを取り、手の空いているスタッフにお願いをして、売店で買ったジュースを飲ませてもらうのがひそかな楽しみだった。冬場には上映前にコートを脱ぎ帰りにまた着せてもらう、ということも可能な範囲でお願いしていた。
そして、銀行。時間をかければATMを操作することはできるが、万が一暗証番号を間違って入力すればキャッシュカードが使えなくなってしまうから、今は同意書を書いたうえで銀行員に暗証番号を伝え、かわりに入力してもらうかたちを取っている。
このように、私の日常生活は「合理的配慮」なくしては成り立たない。仮に民間企業の障害者対応が一切禁止されたとすれば、私は銀行で生活費を下ろすことも、映画館で映画を楽しむことも、コンビニで日常の買い物をすることもできなくなってしまうだろう。
伊是名夏子氏のコラムを読んで、まず思い浮かんだのは「現場の裁量」という言葉だった。
上に挙げたような対応は、実は「合理的配慮」ではなく、「現場の裁量」なのかもしれない。
いくら障害があるとはいえ、映画館で客にジュースを飲ませるのは、スタッフの仕事には入っていないはずである。銀行でATMをかわりに操作するのも、行員の正式な業務の範疇ではないはずだ。もちろん、コンビニも然り。
にもかかわらず、店員さん、スタッフさんはきちんと私の希望を聞き、なおかつ要望をかなえてくれている。親元を離れ自立し、ひとりで出歩くようになってから、「それはできません」という言葉を聞いたことがない。
なぜなら、それこそが「現場の裁量」であるからだ。目の前の人の要望に何とかしてこたえてあげたい、こたえることはできないかという、善意の結果であるからだ。
ただし、私自身は、すべての場所が必ずしもそうであるべきだとは思わない。お店に何かをお願いするときにはむしろ、断られることを前提に考えている。「現場の裁量」が善意である以上、拒絶されるほうが自然であるからだ。
だから、私には伊是名夏子氏のように、「合理的配慮」を武器にして権利を主張する勇気はない。もちろん、権利を主張しつづけることは大切だが、件のケースでは小田原駅の駅員にはっきり「それはできません」と言われているのだから、いったん退くのが筋道である。
合理的配慮とは、現場の裁量とは何か……今後も、私なりに少しずつ考えていきたい。
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