刑法 問題33
甲は、対立抗争中の暴力団の組員に襲われた場合に備えて、護身用に登山ナイフを身に付けていたところ、ある日、薄暗い夜道を帰宅途中、乙が、いきなり背後から前に回り込んできて、右手を振り上げて立ちふさがったので、組員が殴りかかってくるものと思い込んで危険を感じるとともに逆上し、殺意を持って登山ナイフで乙の腹部を一回突き刺し、全治三ヵ月の傷害を負わせた。なお、乙は、甲を友人の丙と勘違いし、丙を驚かせるつもりで甲の前に立ちふさがったものである。
甲について、殺人未遂罪の成否を論ぜよ。
※旧司法試験 平成6年度 第1問
甲の、乙に対して、殺意を持って登山ナイフで突き刺した行為に殺人未遂罪(199条・203条)が成立するか。
1 実行行為とは法益侵害発生の現実的危険性を有する行為をいうところ、登山ナイフという鋭利な刃物で人の枢要部である腹部を突き刺す行為は、乙の死の結果発生の危険性を有する行為といえる。したがって、「人を殺」し得る行為にあたる。
2 また、甲は、殺意を持って行為に及んでいることから故意(38条1項)も認められる。
3 さらに、乙は驚かせるつもりで甲の前に立ちふさがっただけであり、「急迫不正の侵害」(36条1項)は客観的に存しないため、正当防衛は成立せず違法性は阻却されない。
4 だとしても、甲自身の認識として、他の暴力団組員から殴りかかられたと思い込んで危険を感じたうえで上記行為に及んでいる。そこで、急迫不正の侵害を誤信したとして、誤想防衛として責任故意を阻却しないかが問題となる。
(1) そもそも、故意責任の本質は、規範に直面し反対動機の形成が可能であったにもかかわらず、あえて行為に出たことに対する非難にある。そして、違法性阻却事由を基礎づける事実を誤信した場合にも行為者は規範に直面したとはいえないため、この場合は事実の錯誤として責任故意が阻却されると解する。
(2) そこで、甲の認識として「急迫不正の侵害」の侵害があったかを検討するに、乙が現に殴りかかってくると思い込んでいたことから、「急迫」性が認められるとも思える。もっとも、甲はあらかじめ護身用に登山ナイフを用意していることから、侵害を予期していたともいえる。このように侵害を予期していた場合でも「急迫」性が認められるかが問題となる。
ア そもそも私人に侵害回避義務を課すのは妥当でないため、単に侵害を予期していたのみでは急迫性は失われないと解する。
もっとも、36条1項が急迫性を要件とした趣旨は、法秩序の予防・回復を国家が行ういとまがない場合に補充的に私人に緊急行為を許す点にある。そして、予期される侵害の機会を利用して積極的に相手に対して加害行為をする意思で侵害に臨んだ場合には、もはやかかる緊急行為性が欠けている。
そこで、かかる場合には「急迫」性は失われると解する。
イ 本件では、確かに他の組員から襲われるかもしれないと考えていたことから、侵害を予期していたとはいえる。しかし、襲われるかもしれないと抽象的に予測していたにすぎず、確実に攻撃されると確信していたわけではない。このように侵害の予期の程度が低い場合には、たとえ登山ナイフを身に着けていたとしても、予期される侵害の機会を利用して積極的に相手に対して加害行為をする意思で侵害に臨んだとはいえないというべきである。
ウ したがって、急迫性は否定されない。
エ また、甲の認識として、乙が殴りかかってきているため、暴行罪に該当し得る「不正の侵害」もある。
オ したがって、甲の認識として「急迫不正の侵害」が認められる。
(3) したがって、誤想防衛として責任故意を阻却し得る。
(4) そうだとしても、乙が素手で殴りこんでくるという甲の認識に対して、甲は殺意を持って登山ナイフで乙の腹部を一回突き刺していることから、甲が誤信した乙からの急迫不正の侵害に対する防衛手段としては過剰であり相当性を欠くことが明らかである。そこで、このような誤想過剰防衛の場合でも故意を阻却できるのかが問題となる。
ア この点、過剰性の認識のある場合は、違法性を基礎づける事実を認識しているため故意犯が成立すると解する。
イ 本件では、甲は、乙が素手で殴りこんできたのに対しあえて殺意を持って登山ナイフで突き刺しているのだから、過剰性の認識があったとか考えられる。したがって、故意は阻却されず故意犯が成立すると解する。
ウ よって、甲の上記行為に殺人罪の故意が認められる。
(5) もっとも、急迫性は認められることから、36条2項を準用して刑の任意的減免が適用されないか。
そもそも、同条項の趣旨は、正当防衛状況における恐怖や驚愕等に基づく行為として責任が減少する点にある。かかる根拠は、急迫不正の侵害があると誤信した場合にも妥当する。
したがって、誤想過剰防衛の場合にも同条項が準用されると解する。
(6) 以上により、甲の上記行為に殺人未遂罪が成立し、甲は同罪一罪の罪責を負うものの、36条2項の準用により刑の任意的減免が認められる。
以上