「勢力均衡」の目的 『ナショナリズムの美徳』ヨラム・ハゾニー
本書の中で気になったところの一つとして、勢力均衡についての記述がある。これをもとに考えたこと考えたことを幾ばくか。
勢力均衡のより深い意味を理解した気がする。
これが、あの有名な政治的均衡、つまり勢力均衡という観念を生み出した。これはつまり、いかなる一国も絶対的に優秀な地位を占めてはおらず、自らが正しいとみなすことを他国に対して強制できない状況を意味する。P.152
著者(ハゾニー)はヴァッテル(世界史で見た気がすっぞ!)を引用して、勢力均衡とは平和と安定の維持を目的としたどこかの国の軍事力が突出するのを防ぐためのテクニックということではないとする。
それはまさに、(引用にもあるように)「自らが正しいとみなす」ことの正統性をそれぞれのネイションが主張できるための、ネイションがそれぞれが価値的なコミットメントを深めるための前提、というようなことを述べる。
これをもとに、絆の深化や文化遺産の向上に努める、と。
(いろいろ調べてみたらヒュームもどうやら同じようなこと言ってるみたいなことがココ(P.216)に書いてあった↓)
そのため,国家間の「平和」や「秩序」を第一の目的として勢力均衡が論じられているわけではなく,各国の権利や独立を脅かす世界君主制や世界帝国の樹立に対抗するために,ヒュームは勢力均衡の必要を論じていたと解されるのである。
まぁ確かに単に平和の技術ではないという点は当然っちゃ当然だろうなと。とりわけこの時期の(ウェストファリア期)戦争は宗教戦争だったので、それを止めたきゃ「君の信じてることが正しいとは限らないよ!」的な発想になるだろうし。
ただしここで戦争観についての思想的な流れ、つまり無差別戦争観と重ね合わせると納得がいくものでもあった。
戦争観については、
①「正しい戦争と不正な戦争がある」(差別戦争観)
②「戦争に正不正はない」(無差別戦争観)
の2種類で大別されて(もちろんこれ以外もあるけど)、「①→②→①」の流れがあるというのが教科書的な理解だと認識してる。(①は正戦(just war)とか聖戦(holy war)とか言われるやつ。)
これまではトマス・アクィナスなどの神学的な見地からの正戦論(①)だったわけだが、ウェストファリア条約が「神聖ローマ帝国の死亡証書」と全世界史講師が叩き込むことからもわかるように、度重なる宗教戦争でローマ教皇の権威は失墜した。
こうして西欧共通だった教皇パワーが相対的に落ちてきて、
主権国家体制という世俗的な時代が来て、
主権国家のいち外交手段としての戦争、戦争に正義も不正義もない、という無差別戦争観が訪れる。
こうしてみると、勢力均衡とか「主権バリアー」とかっていうのは、価値相対主義的な、極論「僕の事実、君の事実、オルタナティブファクト」的な話につながってくるのかなと。
しかし、本書の脚注では、
ネイションの観点の多様性に対するこのような経験主義的配慮は、政治や道徳において真理到達の可能性を否定するドイツのロマン主義やフランスの「ポストモダニズム」と混同されるべきではない。経験主義的立場は、ネイションの観点の多様性を、真理追究における利点とみなしている。(原注P.29)
と書いてある。
正直太字にした部分はよくわかってない。なぜ、ネイションの多様性が真理追究における利点なのか。
追究するのが個人なら、特定のネイションの中に住み、生活しながらも、客観的な真理に到達できるのか。ウォルツァーのいうように洞窟の中から"個別の"真理に到達するというのならわかるが。
また、ナショナリティを重視する系の学者は基本的に「構成員の熟議に開かれている」というが、ナショナリティの外からの批判可能性についてはどうなるのだろうか。
またグローバルジャスティスについてはどうなるのか。