高潔な人類への信仰
私には「人類愛」という変わった口癖がある。
私と多少なりとも交友関係がある人間なら、一度は私がその言葉を口にするのを耳にしているだろう。
このヘンテコな口癖に、まわりからはやや白い目で見られることもあるが、私は本心から人類という素晴らしい生き物のことを愛しているのだ。
人類は、困った同族を見れば無償の施しをおこない、自分の身を削って……とまでは言わないまでも、誰かを助けること厭わない、素晴らしい生き物なのだと信じている。
故にちょっと対人関係でいい事があったときや、人間の善性を信じられるようなニュースを見たときに、ふとそれを口にしてしまう。
私には自分がろくでなしであるという自覚がある。
筋金入りのナルシストである一方で、私は私自身の人間性に一切の信用を置いていない。
今までの人生で、自分の欲に従って、誰かの人生……とまではいかないでも、誰かの人生の一部や、生き方を歪めてきた経験があるからだ。
故に私は、私が愛する高潔で、崇高で、素晴らしい人類の風上にも置けない自分を卑下して、ろくでなしの烙印を押す。
しかし、社会に出てからというもの人類というのは私が思っているほど素晴らしい生き物ではないのではないかと思うことが増えた。
ろくでなしの私から見ても、人間性を疑うような行動・思想・言動をする人間が世の中には沢山いた。
私が愛する高潔で、崇高で、素晴らしい人類というのは限られた一部で、大多数は私と同程度にはろくでなしで何処か破綻した人間性を抱えて生きているみたいだった。
最近になって、私は私が思う人類像を、現実に即したものに変えるべきなのではないかと悩むようになった。
大多数の人間が私と同程度には醜悪なのであれば、それを標準として定義し直し、等身大の人類と向き合うべきなのではないだろうか?
ただ、この現実を認めてしまうのは負けを認めるようで嫌だった。
私の愛する人類は、それこそ『走れメロス』のメロスのような、時に悪魔が囁こうとも、根本的には善性を抱えた愛されるべき存在なのだ。
大多数の人間がろくでなしの世界なんて寂しいじゃないか。
それでも、人間の醜悪な面を見たとき、私は人類への愛が揺らぎそうになる。
人類は素晴らしい生き物であるという私の信仰が、崩れそうになる。
ひょっとすると、いや、きっと、いつか私は人類のどうしようもない醜悪さに対峙して、「ああ、人類ってこんなもんなのか……」という落胆と共に人類がそこまで素晴らしい生き物ではないことを認めてしまうかもしれない。
でも、それは今日ではない。
私は私が愛する高潔で、崇高で、素晴らしい人類に愛想を尽かすその日まで人類を愛し、信じていたい。