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DYGLと歩む                    「Thirst」京都METRO公演より

DYGLというバンドがたまらなく好きなものだから、
noteにでも落としてみるかと不意に思い立った。
つらつらと書き始めたら、思いのほか止まらなくなってしまった。

本文では、私とDYGLというバンドについて書いた。その中でも、彼らが走り抜いた「Thirst」ツアー、
京都METROでの公演を振り返る。
お付き合いいただけると幸いである。




初めてDYGLのライブを観たのは割と最近の話だ。
新木場STUDIO COASTがいよいよ営業を終える、そのような実感が湧いてきた季節のこと。
SWEET LOVE SHOWER 2021 BAY AREA

新木場STUDIO COASTにて

DYGLを初めて観た当初は、彼らを好きだったわけではなかった。むしろ、ほとんど興味がなかったくらいだ。曲も有名どころの曲、例えば「A Paper Dream」、「Let It Out」などを知っていただけくらいのもので、知っている曲の方が少ないくらいだったのを覚えている。
だから彼らの音楽に一目惚れをしたとか、頭をぶち抜かれたような感覚があっただとか、そういう劇的な出会いをしたわけでは全くなかった。
ラブシャで彼らのライブを観てもなお、「A Paper Dream」いい曲だなとか「Bad Kicks」めちゃくちゃぶち上がるなとか、そのようなことをぼんやりと考えていただけ。その日を境にDYGLの楽曲をたくさん聴くようになったとかいうこともなかった。


いきなり余談で申し訳ないが、この時一緒に行った友人(以下Nさん)はDYGLが好きだった。もちろんそのラブシャもDYGLがお目当てであった。
私のお目当てはGEZANだった。Nさんはこの日初めてGEZANのライブを経験した。彼らのライブについて感想を聞いてみたのだが、GEZANのトライバルで呪術的でそれでいて儀式のような、異様な雰囲気を纏ったライブにドン引きしていたのが印象的だった。(しかしながらNさんは、紆余曲折を得て今ではGEZANのファンになっている。)
まだ新木場STUDIO COASTが現存していた時の思い出である。本公演は、私にとって最後の新木場となった。私も新木場にはたくさんお世話になった。
改めてお礼を言いたい。ありがとう新木場。

SWEET LOVE SHOWER 2021 Bay Area
SWEET LOVE SHOWER 2021 Bay Area タイムテーブル


話を戻そう。

その後も私はDYGLのライブに通っていたわけではなく、久しぶりに観たのは2022年の11月。ラブシャの新木場公演からほぼ1年が経過していた。
先にも登場した友人Nさんから誘われて行ったそのツアーは、新しいアルバム「Thirst」リリース直前のツアーで、新と旧の楽曲に分けられた2部構成の特別なライブになっていた。

2部構成のうち、新曲で構成された部。彼らのニューアルバム「Thirst」の楽曲から演奏された。それらの楽曲を初めて聴いて、全体的にしっとりとしているかのような質感になったのが印象的だった。彼らの初期作品にあるような荒々しさ、ざらつきのような音はほとんど無くなっていて、洗練されていた。
統一された雰囲気の中で、様々な音楽的アプローチを試みているオルタナティブの音楽。そのような感想を持った。

Nさんも同じような意見を持ったみたいで、「全体的に湿っぽい感じだったね〜」「昔みたいにBad KicksとかHalf Of Meみたいなゴリゴリのやつ作らないのかな〜」とかライブ終演後に口々に話していたのを覚えている。正直な話、初めて「Thirst」に触れた感想としては「しっくり来なかった」というのが本音である。

その時にもうひとつ、Nさんと話していたのが、DYGLが今やりたい音楽が「Thirst」なんだろうねという話だった。
アーティストが新譜を出す度に雰囲気が変わるのはよくあることで、初志貫徹のように同じような音楽をしていくことの方が珍しい。DYGLも同じで、彼らが見ている世界や、その捉え方の変化が音楽に如実に現れているのだと思った。

Thirst」のアルバムが正式にリリースされた時、初めて聴いた時と打って変わって好きだなと思った。生で聴いてみたいと思った。それは彼らのツアーで初めて「Thirst」に触れたときに比べて、アルバム全体で聴くことにより楽曲それぞれの解像度が上がったこと、私の曲に対する質感などの捉え方が一新されたことによるものだった。



その後、すぐにDYGLThirst」のツアー日程が発表された。
いつもの友人Nさんとは、前回のWWWXでのライブの際に、新しいツアーも絶対行こうねという話を既に出されていた。もちろん私も行く気満々で、OKを出すつもりであったが、ひとつ問題が発生した。DYGLの東京公演は、ものの見事にRina Sawayamaの来日公演、そして東京公演と被っていた。
Rina Sawayamaのチケットは既に確保済み。私は彼女のファンである。絶対に観ておきたかった公演だからもちろん日程は外せない。
Nさんにはライブ被りで行けないと断った。申し訳なかった。

しかし、私自身としてはどうしても「Thirst」を作り上げた今のDYGLを観てみたい。そうすると必然的に検討しなければならないのは遠征である。行けそうな公演はあった。土曜日開催の京都METRO公演である。
しかし迷った。諸々の事情が重なってお金がなかった。当時は転職間際であったこと、住民税などの支払いが重なっていたこと、そして時期が年末であったため、帰省などのための出費もあったこと。情けないことにお金がないことに関しての必要条件がかなり揃っていた。
諦めるか否か迷っていたが、行くことにした。
12月は本業を終えたあと、夜遅くまで死に物狂いで単発バイトを詰め込んだ。疲労困憊になりながらもなんとか予定金額をかき集めた。
2023年1月20日。私はRina Sawayamaの圧巻の東京公演を見届けた後、その足で京都行の夜行バスに乗り込んだ。




公演当日。京都METRO。場所が分からなくて若干迷った。まさかライブハウスが駅直結の地下にあるとは思わなくて。神宮丸太町駅という駅が最寄だった。

DYGL「Thirst」京都METROにて

DYGLの物販に寄った。客が全然いなかったので、「Rina SawayamaDYGLの東京公演が被っていたので京都に飛んできました」などとスタッフの方と話したりした。スタッフの方もRina Sawayamaと公演が被っていたのは承知だったらしく、若干悔しそうにしていた。前回ツアーのロンTがかわいくて、旧グッズだからか安く売られていたので買ってしまった。

整理番号呼び出しの際に知ったのだが、散々悩んで買ったDYGL京都METROのチケットは、私が最後の1枚だったらしい。私の整理番号のあとに呼ばれた人は誰もいなかった。入場が遅れていて、私が入場したころには開演の時間はとっくに過ぎていた。

案の定、ライブハウスの中はパンパンである。京都METROは演者と観客の床レベルの差が小さく、整理番号最後でほぼ最後尾に位置していた私には前方はほとんど見えなかった。両サイドに床レベルが高くなっている段差はあるものの、人が1人乗れるスペースは残されていなかった。ライブのたびに身長2mくらいほしいなって思う。ライブの前半20分程度は前方の視界全て人の壁に阻まれていて、心境非常に辛かった。遠征する場合はチケットを早めに確保することをお勧めする。途中から視界が若干開けたときは救われた気持ちになった。
しかし、場所は小箱。会場の熱の伝達速度の早さ、演者との距離感の近さ。そしてライブを作り上げているのは私たちであるという高揚感。音も爆音過ぎず、小さすぎずちょうどよい音響だった。最初の視界の辛さとは裏腹、とても良いハコのように思えた。

公演を終えてみたら、私は多幸感に溢れた。
本当に来てよかったと思った。
この時、今のDYGLは「Thirst」の音楽以外ありえないと腑に落ちたような気がした。


Your Life」はアルペジオなギターの音から始まり、次第に厚みがあるバンドセッションのような厚みのある音に変化していく。DYGLの音は、熱がありながらもクールであり、冷静と情熱の間を縦横無尽に行き来する。ボーカルの響きはエモーショナルな音楽と調和し、私たちに新たなDYGLの姿を提示してくれた。


I Wish I could Feel」は物静かなで艶やかなギターの音色から始まるのとは対照に、次第に激しく熱を帯びていく轟音が特徴的である。その音は「Bad Kicks」のような爆発力を持つような曲には表現ができないような熱感を放っている。
DYGLという火種が徐々に勢いを増し、大きな炎となり、それを囲って祝祭が開かれていくかのような高揚感がこの曲にはある。


Phosphorescent / Never Wait」は、トリプルギター編成が存分に活かされた疾走感があるナンバーである。今作の新譜は全体的に湿った質感を持っている中で、「Phosphorescent / Never Wait」のパンクロックのような爽快感溢れるメロディは、初夏の陽気と冷えた炭酸のような心地よさを持って身体を駆け巡っていった。


Dazzling」は、この日の最大瞬間風速を観測した曲だった。歪んだギターがタイトに掻き鳴らされ、DYGLの溜め込んでいた熱が一気に会場を包み込む。その熱は瞬く間に京都Metroを支配した。この曲はいわば起爆材であった。カオスなフロアの中でDYGLが見た景色は、きっと私たち観客の破顔一笑な表情だ。全員が自由に身体を揺らし、飛び跳ね、瞬間を楽しんでいた。
間違いなく彼らのキラーチューンとなる曲だと確信した。

本公演ではさらに「Bad Kicks」、「All I Want」を演奏した。フロアの熱量を見て急遽セトリを変更してのことだと言っていた。だいぶ前のライブの記憶なので記憶が定かではないが、「Dazzling」のあとに立て続けに上記2曲を演奏したはず。
私がDYGLの楽曲で一番を争うほどに好きな曲が「All I Want」だ。

All the time my life is like a plastic
いつだって僕の人生は偽物のようなんだ

I've got the feeling
ずっとそんな気分なんだ

It's n-n-n-n- not enough!
まだまだ全然足りないんだ!

DYGL  「All I Want」 より


All I Want」好きだ。この曲が持っている現実への空虚感、しかしながら、その現実を生きる当事者としての未来への期待、そして強さ、希望。焦燥感に揉まれているかのようなその情景は、私を形作る様々なエモーションの中でも核となる部分を担っていると思っていて。
いつだって私は何かが物足りなくて、その空白を埋めるために生きているような感覚がある。音楽がこんなに好きなことだって、きっとその空白を埋めるためのひとつのピースなのである。しかし、私の空白はそれだけでは完全に塞ぐことは出来ていない。物足りない。この物足りなさを埋めるためには具体的に何が必要であるのか、それが分からない。
だから毎日もがいている。
本当に欲しいものは何であるのか。心の空白を一時的にでも埋めてくれるものは世の中にはたくさんある。しかし、そのすべては偽物の充足感である。私はもっと根本的な、私の本能にも似たような部分、そこを満たす何かを探している。仮に偽物でばかり私を満たしたところで、私は本当の私と言えないのではないか。当然ながらその充足感というものは長続きはしない。穴が開いたバケツに水は溜まらないからだ。
自分が望むものですべてを満たしたい。それに正直に生きようとしているかのような「All I Want」。
私はいつだってAll I Wantだ。
私にとってのアンセムソングだと思う。


Your Life」において、DYGLの音楽は熱がありながらもクールであると書いた。それが熱側に振り切ったときにどうなるか。
この「Dazzling」、「Bad Kicks」、「All I Want」の演奏は、まさしくそちら側に振り切った瞬間だった。フロアはDYGLの音楽に呼応するかのように一気にヒートアップした。京都METROの狭さに関わらず、ダイバーが出るほどにライブハウスで互いに求めあった。冷静と情熱、緩急を使いこなした彼らの爆発力はまさしく烈火のごとく。その熱量はフロアの発火点を優に超え、京都METROを真っ赤に染めあげた。

京都治安悪ぃなww」とニヤニヤと話す彼らはとても楽しそうだった。
京都METRODYGLはやばいというツイートをどこかで見たが、寸分たがわぬ感想を私も持った。
その2曲のあとはバラード曲になだれ込み(多分。曲順とか細かいところは覚えていない)、「俺ら情緒不安定すぎじゃね??」などとおどけていた。
涙が出るほどに楽しかった。
無理して京都にまで行ってよかったと思った。

DYGL「Thirst」電子チケット





ここから記すことは私の個人的な感想である。
DYGLの奏でる音、それは諦念感が薄っすらと漂う世の中に対するカウンターだと感じる。一緒に時代を歩んでくれる音楽だと思う。
今、世の中が緩やかに悪い方向に傾いている気がする。私は生まれてから今まですべての時間が「失われた30年」と言われている世代である。
私たちの世代には世の中は変えられない、声を挙げても意味がない、そのような価値観が蔓延ってはいないかと思うことが多い。
残念だが、実際は限りなくそうなのだと思っている。民主主義はシルバー民主主義で若者の方向を向いてくれない。少数意見も反映させるのが民主主義というもののはずが、暴力的なまでに多数決が採用される。立場が弱い人の意見は透明化される。弱いものはいつだって弱いまま。政治家は既得権益を守ることに必死で何も見えていない。そのような光景を私たちは幾度も見てきた。

そんな辛い現実でも、ほぼ私たちと同世代である彼らは時代を力強く闊歩していて。
今を生きる人間としての責任、それらDYGLを形作る芯となるようなものが楽曲には存分に秘められている。彼らから滲み出てくるかのようなその強さは、お前もしっかりしろと背中を押されているかのような気分になる。

政治的な話をしろということでは全くない。
DYGLの提示する世の中へのカウンター、
それは「考えること」「声を挙げること」だと思っている。
みんなが我慢している、だからと言って悪習慣となるようなもの、残してはいけない価値観に沈黙するのはやめにしようと、それだけの事なのだと思う。

コロナ禍は良くも悪くも世の中を大きく変えた。
例えば非接触の推奨により、長年日本に蔓延っていた印鑑文化のような非効率的なものは急速に廃れた。リモートワークが推奨され、仕事への効率化が叫ばれた。オンラインを活用し、どこにいても会議ができるような制度を急速に確立していった。
今は価値観が変容する過渡期なのではないか。その価値観を先導切って推し進めていけるのは、私たちの世代たちではないかと思う。
私たちの行動は、まず半径1mを変えるくらいの力かもしれない。しかし、ひとりでも行動する人が世の中で点々と集まれば、それは次第に大きなムーヴメントになる。
Bullsitな価値観は時代遅れにしていこう。
それが今を生きる私たちがするべきことだと思う。

彼らのアルバム、「Thirst」というのは渇き、欲望という意味である。もっと内なる欲望に正直に生きていきたいと思う。それらができたとき、
All I Want」で提示した私の中の空白も同時に埋まっていくと思うから。
私は様々なことを諦めながら生きていたくはない。少しでもより良い明日を過ごせる努力をしていきたいと思っている。
DYGLの音楽は、私にとってそのような音楽だ。


彼らは直近でツアーがある。
大阪はソールドアウトしたらしいが、名古屋、東京はまだわずかながらチケットがあるようだ。
この記事を読んで、もしDYGLを気になったのならば一度彼らの音楽を聴いてみてほしい。そしてライブに足を運んでみて欲しい。そして気が向いたら感想を教えてもらえると本当にうれしい。


私には馴染む音楽というものがある。馴染むというのは、大仰な言い方になってしまうかもしれないが人生においてという意味である。DYGLはまさしくそれで、とても馴染む。私にとってこれからもずっと大切な音楽であることは間違いない。


本文はもう終わる。長くなってしまった。

もしあなたがここまで読んでいただけたのならば、心よりお礼を申し上げたい。ありがとうございました。

DYGLと出会うきっかけになったNさんには感謝している。NさんはAge Factoryも好きで、それもあってかとても良くしてもらっている。
ありがとう。またDYGLもAge Factoryも観に行こう。

最後に、DYGLが本当に好きだ。これからもずっと応援している。
そこのあなた、いつかツアーで乾杯しましょう。








音楽だけで終わらせようかとも考えたが、
せめて何かしらの決意表明、そしてアクションを起こしたい。以下は本文とは関係ない。


本文でRina Sawayamaについて一瞬触れた。昨年、SUMMER SONICにおいて、日本のLGBTコミュニティの立場について鮮烈なコメントを残したことは記憶に新しい。

「私がここで同性婚をしようとしたら、出来ないのです。なぜかというと、日本では禁止されています。G7の国の中でも唯一、そのプロテクション、LGBTQの差別禁止(を定める法律)がない国。同性婚のプロテクションがない国です。私は日本人であることを誇りに思っていますが、これはすごい恥ずかしいということです。私と、私の友だち、チョーズン・ファミリー(※)を受け入れて平等な権利を与えられるべきだと、平等な権利を持つべきだと思う人たちは、皆さん私たちと私たちのために闘ってください。LGBTの人は人間です。LGBTの人は日本人です。愛は愛。家族は家族です。一緒に闘ってください。よろしくお願いします」

※血縁の繋がっていない人たち同士が、自分たちで家族のような存在になることを選んだ家族のこと。リナはエルトン・ジョンが参加したバージョンもリリースされた「Chosen Family」でチョーズン・ファミリーについて歌っている。

https://front-row.jp/_ct/17564836  より

Rina Sawayama自体がバイセクシュアル(男性、女性共に恋愛感情を持てること)を自認しており、当事者である。日本ではアーティストの政治的主張が広く嫌がられる傾向が強い。その中でも、Rina Sawayamaが先陣を切って、大観衆を前に述べたコメントに救われた人も多かったのではないだろうか。私も現地で聞いた。非常に力強い言葉だった。


最近ではわが国でLGBT法案が可決した。
LGBTコミュニティへの理解増進を図る法案である。
そのはずだが、LGBT法案はマイノリティに寄り添う条項の体を成しているだけで実際には全く違うものである。

全ての国民が安心して生活することができるよう留意する

これは当法案の留意事項として盛り込まれた文言である。
LGBT法案は、マイノリティであるLGBTQ+当事者の権利を保障する法案である。その法案にマジョリティ側の権利保障についての記述がされているのはなぜなのか。
理解増進を図るためならば、当事者が安心して暮らせる、というような文面だけで良いのではないか。全ての国民が安心して暮らせるようにという言葉の全ての国民には当事者側の人は含まれているのか。
安心して暮らせるというのは一体どういう意図を持っているのか。
LGBTQ+当事者たちはマジョリティ側にとって不安因子である、マジョリティ側の安心のためだから、当事者側は我慢しなければならないときがあるということだろうか。そもそも安心とは?何か危害があるとでも思っているということだろうか。
真意の程は私には分からない。しかし、節々から感じられる違和感。それらが意味することは、当事者への理解を増進するどころか、むしろ彼らへの抑圧を助長してはいないか。そうとも解釈できる法案の時点で制度が間違ってはいないか。この法案は結局はマジョリティ側にしか向いていないのではないか。

そもそもの話だが、LGBTQ+の日本での当事者の割合をご存知だろうか。
13人に1人程度と言われている。40人クラスで3人程度はいる計算である。
知り合い、身内に数人いてもおかしくない割合で彼らは存在している。
いやいや、私の周りで見たことないよっていう人もいるだろう。勘違いも甚だしい。意識を改めるべきだ。知らないだけである。現状の日本では、「普通」の人が好ましいからだ。カミングアウトしていない当事者は透明化される。周りに、そしてどこにでも彼らは存在しているということを認識すべきだ。
もしかしたら友人が。家族が。国家ぐるみで不安因子扱いをされている。それでいいのか。私は絶対に許されないと思う。悔しくて泣きそうになるときがある。そもそも先にもRina Sawayamaのコメントで記述したように、同性婚すら認めていない国がLGBTに対して理解を示すなんてことができるのだろうか。
これは私たちの周りにいる、普通の誰かの権利の問題であることは意識すべきだ。

入管法改正案も同様である。先進国の中でも抜きん出て低い難民認定率の中で、本当に支援が必要な人を排斥する可能性があること、さも日本人以外を不安因子としてみているかのようなゼノフォビア的発想、そして実際に難民申請者の人権をないがしろにしている現状。

人権、もしくは権利の保障は政府主導で実現していくべきものだと思う。しかしながら、異質な人間は排除しようとする制度ばかりを制定していて、私にはまったく真逆なことをしているように思える。
人間はそれぞれ人権、そして様々な権利があるという至極当たり前の事柄に対して一切の例外を持たせてはいけない。
一部の例外は、拡大解釈、例外の増設により無秩序にその幅を拡大していくことになる。


私は声を挙げたい。
これらこそBullsitな価値観である。
当事者じゃないから、私には関係ないからなんて思わないでほしい。他人に対する想像力があれば、ひとりが意識すれば、それが団結すれば価値観なんてアップデートできることはコロナ禍で分かったではないか。愛は愛。家族は家族だ。

私はLGBT法案および入管法改正に対して断固抗議する。以上。



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