「名言と愚行に関するウィキ」、書籍化される
私が親族以外で最も尊敬する人間の一人、とつげき東北氏がこの度新たに書籍を出版することとなった。
ちなみに、この本の元ネタは「名言と愚行に関するウィキ」である。
私は麻雀研究においてこのサイトを大いに活用している。
私の麻雀研究を発表する際、参考文献などを挙げたら「名言と愚行に関するウィキ」は間違いなく入れる。
それが証拠に、以前書いたパワーポイント「麻雀研究の具体的内容」でも参考文献にこのサイトが入っている。
では、具体的にはどんなところを参考にしたか。
例えば、「宗教」の項目におけるコメント欄でこんなやり取りがあったが、これは非常に参考になった。
http://totutohoku.b23.coreserver.jp/totutohoku/index.php?%BD%A1%B6%B5
以下、重要と思われる部分を紹介する。
(以下、引用、強調はみーにんによるもの)
(みーにん註、このコメントはハンドルネーム「マネ」のコメントである)
>「科学者だから」と言う理由で盲目的に信じ込む事であって、
>実験や観測で確認でき、そうである可能性が非常に高い理論を
>信じるのとは別の事ですよね。
別ではないよ。
科学のある理論を実験や観測で反証するには、そのためのいくつかの補助仮説に対して無批判にならざるをえないんだ(「批判的な態度を保つには、超越的な前提が必要」)。「補助仮説も間違ってるかも」とか考え出したらもうなにも話が進まない。だからといって、補助仮説の正しさを調べようとしても、また別の実験が必要になって・・・以下、無限後退する。
こういう構造的な問題があるので、仮にある理論の間違いを示すような実験結果が出たとしても、「ああ、これは補助仮説が間違ってたんだな」と解釈して補助仮説の方を修正してやれば、その理論は反証されないままに実験結果を上手く説明できてしまう。
なーんだ、科学だって実験や観測によって反証できないじゃん
だったら聖書はかなり高い確率で正しいと信じてるのと変わらないじゃん
と原理主義者に言われたらそれまで。
実際のところ原理主義のロジックって強いから、日本人の常識的な感覚からすればどれだけアホに見えても、決定的に論破するのは不可能に近い。
「科学よりも原理主義の方が正しいのかもしれない」と真摯に疑う態度を保ち続けるというその一点「のみ」が科学と宗教を区別するポイントだし、そういう態度をとったら原理主義を無下に否定すること自体ができなくなっちゃうからね。
(中略)
理論の反証可能性は補助仮説の修正によって容易に失われうる。科学者集団の自己批判的な態度によってしか反証可能性は担保されえない。
では、どうして君は彼らのそうした態度を信じるのか。ここまでくると、宗教と科学を信念の体系・説明の体系として「合理的に」区別することはできなくなる。
目に見える説得力や歴史的権威性、壮大な体系性という点において、一部の宗教は非常に優れている。コンピュータなどの成果の「分かりやすさ」によって科学を信じる者は、時代や環境が変われば、同様にして奇跡等の「分かりやすさ」によって宗教を信じることだろう。
「科学には反証可能性があるから宗教とは違う」は、「キリスト教には聖書があるから他の宗教とは違う」に等しい。科学理論の反証可能性がどんな危うい前提の上に成り立っているかに自覚的でなければ、聖書を根拠に他宗教を攻撃する輩と同レベルに堕することもありうる。
(中略)
(みーにん註、ここからのコメントは「とつげき東北」のコメントである)
科学が宗教がかるのは、唯一、「科学は~~という理由で宗教よりも合理的だ」「反証可能性があるため~~だ」「論理実証主義に基づいてうんぬん」といったように科学の正当性が宗教のそれを超える、そう、私は科学を信頼している、などと表明される瞬間である。「スーパーマリオよりクソです、科学って。」と言い切って笑えない人が現れる瞬間である。
(中略)
私たちにとって、科学が宗教よりも正しいらしいことは疑いの余地なく自明であり、それに対するあらゆる「論拠」を用意することが可能だ。
一方で、逆もまたしかり、なのである。
あなたが何を信ずるかなど誰にとっても問題ではなくて、もしもあなたにとってそれが問題であるとするならば、あなたが信ずる何かがあなたの信じない何かと同じ構造によって排撃された際に、あなたに何ができるかということが重要なのではないか。
こと、本ウィキにおいて、「科学はこんな実績があります。こういう風に論拠が出せます。方法論も確立されています」ではぶざまだと思われる。あなたがバゴーンと同じ末路を辿りたいのなら別だが。
(引用終了)
引用が長くなってしまった。
ただ、麻雀研究結果を重視している人間にとって、このやりとりは必須の知識であるので長めに引用した。
私が「麻雀研究者をなくしてはならない」と思っている重要な動機はマネ氏が述べた
「科学者集団の自己批判的な態度によってしか反証可能性は担保されえない。」
という点にある。
麻雀研究の正当性を担保しているのは数値でもロジックでも牌譜解析結果でもシミュレーションでもない。
麻雀研究者(私やnisiさん)の「私の結果は本当に正しいのか」という自己批判的な態度・同態度に基づく研究である。
麻雀研究者がいなくなれば、このような態度を持つ人もいなくなり、その結果、よろしからぬ事態を招来するであろう。
これが私が「麻雀研究者を絶やすことが麻雀界の公共の利益に反する」と考える重要な理由である(他の重要な理由はどこかで書いているので割愛する)。
あと、他の記事としては、「(議論テク)大衆論法:誤差要因の列挙」も有用である。
(以下、重要な部分引用)
筆者は麻雀について統計的に分析した書籍を出版したが、データに基づいた記述に対しては、麻雀プロを含む多くの人から以下のような反論が寄せられる。
「あなたはAよりもBが有利だと言っているが、○○という条件ではAをする人がほとんどいないが、××という条件でならBをする人もいて、誤差がある。言い切れないのではないか」
仕方なく筆者は、○○という条件と××という条件に分けた上で、同じデータを取り直すことになる(なぜわざわざ他人の論を批判する者が、この作業を行わないのかは謎である)。
(引用終了)
以上、簡単に私にとって役に立った部分を示した。
無論、役に立つ部分は他にもある。
だが、それについては私がどうこう言うよりも、直接そのサイトをご覧いただいた方がよいだろう。
さて、私はこの本とこのサイトを「私は理系の学問しか触れていません」という理系の大学生(東大生も当然含む)に勧めたい。
というのも、高校の理系の授業に触れているだけではおそらく絶対に知ることのできない領域だからである。
場合によっては、衝撃的な内容であるとは思われるが、絶対に見て損はしない。
あと、麻雀研究について知りたい人にとってもこのサイト、本はお勧めである。
とつのプログラミング講義は技術的なものとして有用であるが、こちらの本はおそらく思想的に有用である。
細かいものはさておき、「背景的・思想的なものを知っておきたい」という人にこの本は有益である。
ただ、とつげき東北の文体は独特であるし、毒(!)もある。
私は彼の毒舌を気に入り、彼の忠実な信者(!)になったわけだが、人によってはあわない面もあろう。
あうかあわないか、それを確認するために「ウィキ」を見るのもよいかと思う。
というわけで、今日は本の宣伝。
本を読んだ感想自体は後日書きたいと思う。
それでは。
もし気が向いたら、サポートしていただければありがたいです。 なお、サポートしていただいた分は、麻雀研究費用に充てさせていただきます。