初心者は量産型デジタルを目指すべきなのか
目次
1 はじめに
2 量産型デジタルの本質
3 何故量産型デジタルを経由すべきでないのか
4 デジタルから見た場合のすべきこと
5 麻雀を通じて何を目指すのか
6 おわりに
1 はじめに
この文章は、次のURLにあるみずのさんの「初心者が量産型デジタルを目指すべき3つの理由」を読んで思ったことを文章にしたものである。
最初に確認しておくが、私はみずのさんの文章に真っ向から反対しているわけではない。
「私自身、人に麻雀を教えるならどうするんだ?」と言われれば、「(例外的な場合を除き)量産型デジタルを勧める」だろう。
一方で、それに対して釈然としないものも感じていたので、文章にしようと思った。
それが今回の文章である。
これを読んで、「麻雀はいかに強くなるべきか」、「強くなりたいと言ってきた人に対して麻雀をどう教えるべきか」について参考になれば幸いである。
なお、みずの氏の主張は量産型デジタルでよしとするものではなく、「量産型デジタルを経由する形で(途中から量産型デジタルを脱して)強くなる」というものである。
これに対する私の意見は「その道を経由する(量産型デジタルを経由すると)と重大な副作用を生むのではないか」というものである。
また、私のスタンスは所謂デジタルである。
量産型デジタルがダメだからといってアナログやオカルトを勧めるものではない。
デジタルの立場から量産型デジタルを経由することの疑問点を投げかけたいと思っている。
その点ご留意いただきたい。
なお、この文章はかなり昔の段階で作成し、関係者に配布して意見を求めている。
しかし、公開する部分は私の文章、特に、問題提起として書いたこの文章のみであり、他人からいただいた意見などについては公開する予定はない。
2 量産型デジタルの本質
まず、量産型デジタルとは何かを定義する。みずの氏の主張を引用すると、
「本に書いてある知識を簡単にそのまま使う人、というような意味で量産型と呼ばれ、ネガティブな意味合いで使われる言葉です。」
とある。
少し抽象化すると、次のような定義にしても差し支えないように思う。
①自分で計算・牌譜解析・シミュレーションしない②デジタル
ちなみに、従前のデジタルは「誤りも少なくなかった」とはいえ(註1)自ら計算・シミュレーションを行うことで評価関数(戦術判断基準)を作ってきたように思われるので、①と②は矛盾しているように考えられる。
その意味で「量産型デジタルは矛盾した概念」である。
さて、量産型デジタルのキーワードは「依存」である。
量産型デジタルに対してネガティブな意味合いで使われるのは「(その選択が正解か否かの判断を)他人に依存し、自ら思考していない」からであると考えられる。
なお、「機械的に打つこと」もネガティブに映るかもしれないが、正解ならば機械的に打って問題がないため、この点をネガティブととらえるのは妥当でないだろう。
当然だが、「学ぶ」ことは「真似る」ことから始めるわけであるから、他人に依存すること自体がダメなわけがない。
他人に依存し、どんどん良質の知識を吸収していくことが上達につながることは間違いない。
その意味で「量産型デジタルから始める」という手段は合理的であり、私もそのことに異議を述べるつもりはない。
3 何故量産型デジタルを経由すべきでないのか
では、何故釈然としないものを感じるのか。
2004年頃になるが、当時伊藤塾という司法試験予備校に通っていた私は旧司法試験の論文試験対策の講座において講師から次の趣旨のことを言われた記憶がある。
「論文試験を通るためには『未知の問題に対処する思考力』を鍛えなければならない。しかるに、勉強を続けていくと知識は増える一方だから未知の問題はどんどんなくなる。未知の問題に対処する機会はなくなり、未知の問題に対処する思考力は鍛えられなくなる。その結果、本番で未知の問題が出た時に足元をすくわれることになる。だから、最初の勉強の時が大事だ。そのときに未知の問題に対する思考力を鍛えていかないと鍛えるのがどんどん難しくなってしまい、勉強を始めて間もない人間に簡単に抜かれてしまうよ」と。
この点、旧司法試験合格や東大合格のように合格という目標までのプロセスが明確に分かっていれば、つまり、「量産型デジタルを経由した後に何をするべきなのか」まで明らかな指針があるのであれば私もみずの氏の主張に対して異議を述べなかったであろう。
しかし、現実はそうではない。
麻雀において最強の打ち手になる方法は明確な回答がなく、手探りで試行錯誤を重ねなければならない。
いうなれば、量産型デジタルを脱したあとは『未知の問題に対する思考力』が必要になる。
そのとき、量産型デジタルを経由すると麻雀において『未知の問題に対する思考力』を鍛えなかった状況で対応しなければならない。
これでは量産型デジタルを脱して飛躍していかないときに大きな障害となろう。「近道をしたつもりが遠回りになっていた」ということも十分ありうるのではないか。
4 デジタルから見た場合のすべきこと
ではどうすればいいのだろう。
データを捨てるべきなのか。
アナログ派に転向し知識を捨てて勘を鍛えるべきか。
オカルト派に転向して人間の超能力開発に力を注ぐべきなのか。
その選択肢も大いにありうるところであるが、私がそれを主張したらデジタルの否定である。
それでは解決にならない。
この点、私の意見は「その手法に合理性があるが、副作用があるので相当性の要件を欠く」というものなのだから、その副作用を低減させてやればいい。
では、その方法はなんだろうか。
量産型デジタルを経由する上達プロセスを小学校の算数・中学の数学の授業・学習にたとえると「ひたすら公式を並べて覚えさせ、それを問題演習を通じて使いこなせるようにする」である。
この点、「公式を覚えること」と「実践すること」という2点が重要であることは疑いようもない。
しかし、算数・数学の授業を思い出してほしい。
中学の数学の授業では「公式を覚えること」、「公式を用いて問題を解く」の他にもう一つしていることがなかっただろうか?
それは、「公式の証明過程を知ることで、公式を理解する」プロセスである。
この部分が、「量産型デジタルの上達プロセス」にない。
そして、未知の問題に対処する際に必要なのは「新しい選択肢(公式)を生み出すこと」、「その選択(公式)の正当性を検証すること」である。
とすれば、「公式を理解する部分」を追加すれば、具体的には、「公式の証明過程を知ることで、公式を理解する」プロセスを付け加えてやれば、副作用の程度は軽くなるのではないかと思われる。
そうすれば、公式を盲目的に使用することも減るだろう。
この点、それを全部やるというのは不可能だし現実的ではない。
また、最初からやる必要はないとの意見もある。
しかし、重要な部分・自分が納得できない部分に関してこのプロセスを踏めば、量産型デジタルを脱するときに「何をすればいいのか」の指針になろう。
デジタルの立場を維持したまま麻雀の真理に近づくためにはより詳細な条件で牌譜解析をしてデータを集める・より緻密なシミュレーションモデルを作るしかない。
自分で牌譜解析・シミュレーションをする、自分の欲しいデータを研究者などに牌譜解析・シミュレーションさせるということも必要になろう(デジタル勢が昨今不振なのはデータを自ら出さず私やnisiさんに依存しているからではないかと思うこともある、2人で麻雀のすべてのデータを解明するのは不可能である)。
そういう経験を早いうちからやっておけば切り替えがスムーズにいくのではないかと思われる。
もっとも、重要な部分においてこのプロセスを踏んでいれば、それはもはや私の定義したところの「量産型デジタル」の定義から外れているのだが。
ちなみに、拙著『「統計学」のマージャン戦術』(竹書房、2017)において私は結論に直結する数値(局収支)だけでなく、局収支を導くために必要な数値(和了率その他)を可能な限り列挙した(列挙しすぎたほどである)。
また、拙著では「局収支」に従って戦術を決定しているが、それが妥当な理由はなぜか、また、押し引きにおいてどの程度成立するのかということも書いた。
これはデータに基づく戦術の前提について知ってもらい、量産型デジタルを脱せるようにしようと思ったものである。
5 麻雀を通じて何を目指すのか
ところで、私の主張に対してはこのような反論が考えられる。
「麻雀をする人の大半はガチで麻雀を強くなろうとしていない。そこまで見据える必要はない。」
私はこの反論意見に同意する。
そのうえで、次の4点を述べたい。
なお、算数・数学の授業を喩えに用いる。
まず、小学校の算数の授業でさえ、公式を覚えさせて演習させる前には、「何故この公式が成立するのか」の説明はあったように思う(少なくても私が算数の授業を受けた時は三角形や平行四辺形や円の面積が何故その公式によって求められるのかの説明あった)。
そう考えると、「公式を理解すること」それ自体が過大な負担にならないだろう。
また、麻雀においては、「どういう原理でその戦術が導かれるのか、その前提は何か」がわかっていさえすれば、詳細な数値を覚える必要はない。
人によってはそこまで知らないと納得できない人もいよう。
単に公式を覚えるという作業が苦痛になる人もいよう。
そう考えれば、「量産型デジタル」を勧める必要はそれほどないと考えられる。
また、麻雀に対する変な誤解を与えかねない。
例えば、「麻雀は公式通り打てば勝てる簡単なゲームだ」というような。
麻雀研究の作業量は膨大であり、それぞれの公式を導くためには大量の労力(牌譜の回収・牌譜解析・モデルの作成・シミュレータの作成その他)が割かれている。
そのような安易な考え方をもたれることは研究者にとって心外この上ない(註2)。
さらに、「答え(公式)は誰かが導いているからそれを探せばいい、研究者に頼ればいい」などといった他力本願の考えを助長することもあろう。
麻雀の研究は人手が足らず、また、全然進んでいない。
さらに、実利から見ても、「強くなってあとでも量産型デジタルでも通用する」と誤解するならば、それはその人の麻雀観を大きく歪め、その人にとって大きな禍になるであろう。
その禍は一気に強くなるというショートカットのメリットを上回りうるデメリットになりうる。
最後に、量産型デジタルを勧めると「麻雀ができるだけの人」ができるだけで終わってしまう可能性がある。
もちろん、楽しみのため、気力・精神力の回復(リフレッシュ)のためだけに麻雀を打つのもよい。
しかし、麻雀は社会で生きるための諸能力が鍛えるチャンスとしても機能する。
その点を生かせば、麻雀を打つことは趣味を超えて有益な話になるのではないか。
例えば、
麻雀を通じて「不完全情報ゲーム(人生も然り)の不合理性に耐えるメンタルを身に着ける」、
「計算をしながら戦略を決定する癖をつける」、
「物事を決めるときは客観的事実を確認し、それに基づいて戦略を決める」、
「自分のミスパターンを認知し、実生活でそのミスを極力回避するように努める」
ことを学ぶことができる。
そして、これらのことは麻雀に限らず人生に役に立つことである。
無論、先に述べた「未知なる問題に対処する能力」も人生で役に立つ力の一つである。
麻雀をやるのであれば、社会に生きる力を身に着ける機会として生かすということも考慮されるべきであろう。
そして、このようなことが広まれば、「将棋を義務教育に」もっていけたように(これは故・米長先生が長年取り組まれていたことでもある)、麻雀を義務教育にもっていくことも可能ではないかと思われる。
これは、麻雀を通じた大衆文化の向上(多くのプロ団体の設立目的に掲げられている)にも寄与しよう。
「麻雀をどう教えるか」という際には、それらの点(麻雀を通じた大衆文化の向上)に配慮すべきではないかと思われる。
6 おわりに
以上、私として釈然としないものについて語ってみた。
量産型デジタルを勧めることの批判を多く書いたが、私も量産型デジタルを勧めることの有用性は十分認識しているし、みずの氏の主張の有用性は十分認めるものである。
また、当然異論反論はあろう。
その点は自由に語っていただきたい。
本論を通じてデジタル麻雀の戦略発展・戦術発展が見込めるなら、麻雀文化の発展につながるのであれば、私の意見が粉々に論破されたとしても私にとってこれ以上の幸せはない。
最後に、この文章を語るきっかけを与えてくれたみずの氏とネマタ氏(この文章の存在を私に教えてくれた)にお礼を申し上げる。
(註1)昔のデジタルがその方針を間違えていたことをうかがわせる資料として次の麻雀問答がある。具体的部分を抜き出す。
強調したいのは、「牌効率の完全な計算や裏ドラ枚数の計算よりも、純理論ではない実測データでの順位期待値計算の方が(平均順位の上昇のためには)遥かに有用である」という点であり、現在一般で言われる「デジタル」の指針の見直しをすべきだと感じている。デジタルと言えば計算ばかりに目がいくが、計算よりもまずは実測データから切り込んだ方がずっと効率的だろうと思う(なぜなら相手の挙動の純理論的なモデル化は相当困難を極める上、それが少しでも狂うと結果にシビアに表れてしまうからだ)。
また、研究が間違いが多く含みうることを端的に示している文章としてとつげき東北の次の文章を掲げる。
(以下、 上記URLよりとつの発言を引用)
麻雀の件について。
君は私の麻雀の理論が実際の(アナログの!?)麻雀では通用しない的な発言をしているが、たとえば机上の経済学も(コンピュータを用いた金融工学等でも)金融の現場では相当でかく失敗するよね。「モニターの前でただ座ってるだけの状態」で経済学の研究をしているのはだめなのか?
違うだろ。わずかに違うというわけではない。発想がまったく逆なのだ。
君みたいに、やれ現場だ、鉄火場だ、イカサマだ、理屈は通用しない、などと、それを実証することもなく、かつ理屈をつくろうともせずに考えることこそが、いかにも非-知的なのだ。
一歩一歩研究を進めて、多分に誤謬をはらみながらも徐々に構造を解明していくのが「知的」なのだろうが。
(註2)nisiさんのブログの次の記事も拝見されたい
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