局収支シミュレータを理解するための下準備 4
目次
1 はじめに
2 正確な数値を出す理由
3 厳密な期待値なる幻想
4 正確な数値を求める姿勢の必要性
5 AIによる実験という代替手段
6 おわりに
1 はじめに
今日は前日の続き。
今日も「モデル化して計算する」という作業に対する質問に回答する。
今日の疑問は、
何故(正確な)数値を出すのか?正確な数値は必要なのか。
である。
最近、「(正確な)確率・期待値(例えば局収支)を出すことの合理性が分からない」旨のツイートをされている人(転記の許可はいただいていないので、引用はしない)がいるので、それについて私の見解を述べたい。
ただ、私自身、あまりに当たり前のことだったため、考えたことがなく、おぼつかない回答になっているかもしれない。
また、最新のAI事情には疎い関係もあるので、事実誤認などがあれば指摘されたい。
2 (正確な)数値を出す目的
何故、実測値を再現した計算をするのか。
一言で言えば、「自分の主張に説得力を持たせるため」である。
具体例を出そう。
東1局0本場・11巡目
対2家立直(立直者2人は子)
自分が子でピンフのみリャンメン聴牌
初手に切る牌は双方の現物で、かつ、双方の共通現物は4枚以上ある
みたいな状況で押して立直するか、ベタオリするかという状況を考える。
そして、前回の具体例2,3のようなモデルを作ることで、立直した場合、ベタオリした場合の諸々の数値が出る。
それらの数値は(誤差の範囲で)現実を反映していると言える。
とすれば、その数値によって出された計算結果はどうなるか。
未来を(誤差の範囲で)予測した値が出ていると言えることになる。
とすれば、その数値は正確に未来を予測していると言え、自説に説得力が生まれる。
つまり、現実に即した数値を求める理由は、正解に近づくため、あるいは、自説に説得力を持たせるためである。
この点、「単にモデルを立てて計算する」だけであれば、現実とかけ離れたモデルを立てることが可能である。
例えば、対2家リャンメン立直の場合、
生じた結果はすべて等確率とみなす
などとして、和了率などを求めることも可能なわけである。
この場合、生じた結果がどうなるかというと
私がツモ
私が下家に放銃
私が対面に放銃
下家がツモ
下家が対面に放銃
下家が私に放銃(私がロン和了)
対面がツモ
対面が自分に放銃(私がロン和了)
対面が下家に放銃
となる(これは『科学する麻雀』の131ページの記載を対2家立直のバージョンに置き換えただけである)。
そして、自分の放銃は9パターン中2パターン、自分の和了は9パターン中3パターンである。
よって、対2家の追いかけ立直の和了率は33%、放銃率は22%と言うことができてしまう。
とはいえ、このモデルで立てた数値を通じて押し引きを決めることが妥当であろうか。
この点、「生じた結果は総て等確率」という仮定が乱暴であることはすぐに分かろう。
また、実測値と照合すれば、このモデルでは実測値を反映しないことが分かる(例えば、アンパイを切った場合、和了率は37%、放銃率は14%であり、放銃率の見積もりが高くなる。また、双方無筋10%の危険牌を切った場合、和了率は33%、放銃率は33%であり、今度は放銃率を低く見積もりすぎてしまう)。
このように、「モデルを立てて計算しました」だけでは、現実を反映した数値になるか分からない。
そして、その合理性を担保するためには、「より正確な数値の探求」が不可欠になるのである。
これが、正確な数値を求める目的である。
具体的な手段としては、現実を反映した前提やパラメータの設定、実測値との整合性のチェックがこれにあたる。
3 厳密な期待値なる幻想
少し前であるが、「私は厳密な期待値なるものに関心がない。それは幻想だから」旨述べた。
これについても多少言及しておく。
まず、言いなおそう。
正確に言いなおすと、「私は『厳密な期待値』を盾にして、現実のモデルから出された数値を批判することに興味がない」である。
興味があるのは、「より精密なモデルによって出された結論を盾に、粗雑なモデルによって出された数値を批判すること」である。
何故か。
麻雀研究というのは、現実的にできる範囲で計算を行ったり、牌譜解析を行ったりしている。
当然、「現実」という限界がある。
その限界を無視して、「この数値は『厳密な数値』と比較して意味がない」と言われたところでどうするのであろう。
私から言わせれば、「現状生じている研究の限界を取り払うために動いてくれ。(特に、プロの場合)アマチュアの研究者に自分たちの仕事を丸投げするんじゃない」としか思わない。
具体例を挙げる。
私が持っている牌譜は天鳳と東風荘だけである。
だから、フリーなど他の場所における牌譜解析結果は持っていない。
よって、フリーの諸々の数値のデータはない。
しかし、麻雀である以上、フリーと天鳳には類似性がある。
そこで、天鳳の戦術からフリーの戦術について諸々が推測でき、推測した内容を言えるのである。
例えば、対2家立直に対して追いかけ立直をかければ最後の4家は横移動を願って降りることが多い。
また、立直者は和了できなければゼンツする運命にある。
このことは天鳳でもフリーでも大きくは異ならない。
とすれば、対2家立直追いかけ立直の和了率などのデータは天鳳もフリーも大差ないと考えることは不合理ではない。
よって、天鳳のデータを押し引きに用いて、フリーに関する戦術を語ることができる場合がある。
これに対して、「フリーのデータがないから云々。」とわめきたてる行為は、私から見て非常に知的でなく、かつ、現実を見ない発言である。
それくらいなら、フリー相当の牌譜を集めて牌譜解析を行えばいいし、我々にデータを取らせるとしても、フリーの牌譜、約100万局を集めるための何かをしてもよいではないか。
ちなみに、「他のルールなら数値はどうなるのか」を調べるため、私は天鳳名人戦・しゃるうぃ~天鳳・天鳳リーグ(仮)などの牌譜解析を行い、ルール別の数値の研究を行っている。
そういうことをせず批判する自由はなくはないが、その批判が一般的に説得力があるというのは無理があるだろう。
4 正確な数値を求める姿勢の必要性
さて、少し話が脱線した。
さて、正確な数値を求める理由は実はもう一つある。
それは、「麻雀研究者の出した麻雀研究が正しいことを担保する手段」としてである。
データが正しいと考える源泉は何か。
私が最も大事だと考えるものは、「研究者の正解を模索している姿勢」である。
これについては、「名言と愚行に関するウィキ」の「宗教」という項目( http://totutohoku.b23.coreserver.jp/totutohoku/index.php?cmd=read&page=%BD%A1%B6%B5&word=%BD%A1%B6%B5 )におけるHNマネ氏の説明が参考になるので、一部引用する。
(以下、引用、強調は筆者によるもの)
「科学よりも原理主義の方が正しいのかもしれない」と真摯に疑う態度を保ち続けるというその一点「のみ」が科学と宗教を区別するポイント
(中略)
理論の反証可能性は補助仮説の修正によって容易に失われうる。科学者集団の自己批判的な態度によってしか反証可能性は担保されえない。
(中略)
「科学には反証可能性があるから宗教とは違う」は、「キリスト教には聖書があるから他の宗教とは違う」に等しい。科学理論の反証可能性がどんな危うい前提の上に成り立っているかに自覚的でなければ、聖書を根拠に他宗教を攻撃する輩と同レベルに堕することもありうる。
(中略)
科学を信頼する根拠は、その成果や「実証性」「反証可能性」という部分がクリティカルなのではなくて(そう考えるのは大衆的)、科学に携わる人々の自己批判的な態度にあるというのが趣旨。
(引用終了)
以上の話は、「自然科学的研究がなぜ信頼できるのか」という話ではあるが、当然、麻雀研究においても成立する。
結局のところ、麻雀研究がなぜ信頼できるのかという点は、「研究者がガチで、最善を尽くしているから」からである。
身もふたもない話をすれば、研究者依存なのである。
そう考えると、「正確な数値を求めること」それ自体、麻雀研究勢のガチさの証明になるといえる。
すなわちこれが麻雀研究の正当性を担保することになる、と。
私が「なぜ正確な数値を出そうするのか」という問いを見てその論拠を考えた場合、思いついたのはこの二つであった。
参考にしていただければ幸いである。
5 AIによる実験という代替手段
ところで、「正確な数値を求める必要がないじゃないか」という背景には、
それなりのレベルになっているAIを用いて大量に打たせてどっちが優位かを調べればよい
という別の手段があることが背景になるのではないかと推察される。
そこで、それについて意見を述べたい。
そこそこの実力をもっているAI(例えば、爆打)を使って、選択肢毎に選択肢A(立直)・選択肢B(ベタオリ)を採用した場合のデータを大量にかきあつめ、優劣を判定することによって正解を求める、この手段は実証主義的であり、最強の手段である。
しかし、この手段はAI研究者でなければできない。
私から言わせれば、それは事実上不可能な手段といってもよい。
また、正確なモデルによって計算された結果は、現実を予測した数値になっている関係で、AIに打たせた場合の結果を誤差の範囲で予測するはずである。
つまり、正確なモデルを作る行為は、AIの実験結果をあらかじめ予測する行為といえる。
とすれば、現状では、「代替手段として」正確な数値を求めることに意味がないとは言えないことになる。
もちろん、その手段が採用できるものはそれを用いればいい。
また、将来的に、麻雀研究がAIを用いた研究メインになればそれをやって当然という時代が来るかもしれないし、近い将来そういう時代が来るだろう。
そうなれば、「AIを使うのは事実上不可能であり、採りえない」と言えなくなる時代が来て、「計算なんか意味ねーよ」という時代が来るのかもしれない。
ただ、「AIを作るコスト」は「モデルを作って計算し、実測値との整合性をチェックするコスト」よりもはるかに大きいため、コスパの面も考慮するのであれば、「計算なんか意味ねーよ」と呼ばれる時代は当分来ないように思われるが。
6 おわりに
以上、目的の合理性について検討してみた。
なんらかの参考にしていただければ幸いである。
次回は、
「計算のコスパ」
から生じる質問について回答してみたい。
それでは。
もし気が向いたら、サポートしていただければありがたいです。 なお、サポートしていただいた分は、麻雀研究費用に充てさせていただきます。