続・とつげき東北のお言葉 副題、麻雀研究の目的・手段
以前だったか、とつげき東北(以下、「凸」と言う。)の言葉を紹介するNOTEを起案したような気がする。
今回は麻雀研究に関する凸の言葉を集めてみようと思う。
これは、「麻雀研究とは何か」という意味で役に立つので。
なお、出典はすべてとつげき東北HPこと「システマティック麻雀研究所」である。
まず、紹介したいのはこちら。
(以下、0:システマティック麻雀工学概論より引用、強調は私の手による)
しかし、「実力の向上」というのは、知的好奇心の対象という観点からみると、第一目的にはならない。
「結果」だけを求めることは、麻雀という偶然の世界においてはあまり意味のないことだからだ。
偶然結果を残すのではなく、「結果がどのようなメカニズムで変動するのか、どうやって実力を測定すべきなのか?」を理解すること。
無意識に強い打ち方ができるのではなく、「どのような打ち方が、どの程度の強さになるのか? またそれはなぜか?」を理解すること。
麻雀の理論化、理屈化こそ、とつげき東北が最初から目指していることである。
(引用終了)
凸の、というか、麻雀研究の目的が書かれている。
大事なのは「理由付け」である、と。
例えば、「先制ピンフのみリャンメンテンパイは立直すべき」という戦術があるとする。
しかし、大事なのは答え、つまり、戦術ではない。
大事なのは、「なぜ、先制ピンフのみリャンメンテンパイは立直すべきなのか」という理由付けの部分である。
そのことを踏まえてか、凸は「毒と笑いととつげき東北」というコラムで次のことを述べている。
(以下、「毒と笑いととつげき東北」より引用)
麻雀において、たった1試合の結果では強さははかれない。
つまり「結果が全てだ」という発言は、理屈として褒められたものではない。
従って「結果が全てではない」という発言の方が正しいが、発言者のルサンチマン(失敗と、それを隠蔽するための価値転換)の発露である場合が多く、醜い。
とつならこう言うだろう。
「理論が全てだ」と。
(引用終了)
とつの力強さが端的によく分かる発言である。
ちなみに、私が『統計学のマージャン戦術』や『データで勝つ三人麻雀』において根拠(牌譜解析結果など)の掲載にこだわった理由もそこにある。
次に紹介したいのは次の言葉である。
(以下、0:システマティック麻雀工学概論より引用、強調は私の手による)
場合分けしてその全てに解を与えられるということ、あるいは、明確化されていない部分は「ランダム」だと仮定して場合分けせず、仮の解を与えられること、それが「同じ状況で同じ牌を切る」ことなのだ。
(引用終了)
これも重要な発言である。
というのも、これほど麻雀研究の手法を端的に表している言葉もないからである。
大事なのは、明確化されていない部分(=わからない部分)は「ランダム」だと仮定したうえで仮の正解を出す、という部分である。
確かに、詳細に場合分けをし、すべてを明確して、すべての状況に結論が出せるならそれはそれでよいことである。
だが、諸々の条件その他によりそれは不可能なことが多い。
それは、麻雀の正解が今もって解明できていないこと、将来にわたってもほぼ無理であることからも明らかである。
その場合、どうするか。
この点、「状況による」としてしまうのが「従前の麻雀界のスタンスであった」と言える。
確かに、麻雀の正解を立証するためのコストを考えれば、正解を求めることを放棄する、というのもあながち間違いではない。
しかし、麻雀研究者のスタンスはそうではない。
一定の仮定、この場合は「『ランダムだ』という仮定」を置いてしまって、仮の答えを出す、それが麻雀研究者のスタンスである。
無論、場合によっては間違った答えを出すということもあるだろう。
だから、麻雀研究は常にアップロードされていくことが、検証され続けることが必要なのである。
アップロードがなされない麻雀研究・検証されない麻雀研究などおそろしいものはない。
それについて、とつげき東北は別のところで次のような言葉を述べている。
以前、掲載した言葉ではあるが、もういちど掲載しよう。
(以下、名言と愚行に関するウィキ、議論記録5のログより、強調は私の手による)
一歩一歩研究を進めて、多分に誤謬をはらみながらも徐々に構造を解明していくのが「知的」なのだろうが。
(引用終了)
前回は特に言及しなかったが、今回特に強調しておきたいのは、太字の部分、つまり、「多分に誤謬をはらみながらも」という部分である。
「極端な単純化、ランダムという設定により仮の答えが間違う可能性はある、だが、それでも答えを出し続ける」というのが麻雀研究の在り方なのである。
次に紹介したいのはこちら。
(以下、「最強水準になるための麻雀講座」の「技術的精神論」より引用)
自分で技術を向上させようと思うなら、必ず実験的な方法論に基づいて行うべきだ。つまり「読み」などより信頼できる「データ」を取ることだ。
(引用終了)
データが大事ということをこの上なく示している文章である。
客観的資料の重要性が示されている。
ちなみに、通称「2択本」の「はじめに」にこんなことが書かれている。
(以下、『知るだけで強くなる麻雀の2択』の「はじめに」より引用)
実は私は、雑誌近代麻雀で多くの麻雀プロにコラムを書いていただいているのですが、その中でとても熱心なプロが『ション牌の字牌とワンチャンスだったらどっちが当たりにくいのか、筋と1枚切れの字牌だったら?というデータをきちんと知りたい』と書いていたのです。
(引用終了)
私のかつての目標(今はモチベーションがほとんどなくなったのでやる気は全くない)に「麻雀数値データベースの作成」というものがあったが、、、。
やはり、作るか・・・。
今回、最後に紹介したいのがこれ。
ASAPINによって「量産型デジタル」と言う言葉が定義されたが、それに対する凸の発言である。
(以下、麻雀和了放銃方程式の定式化(和了率・放銃率等と順位分布等に関する定量的研究)より引用)
麻雀人口の1/4くらいが「流れ」をようやく相対化したというのに、その1/4のうちほとんどの人によって、同レベルのデマが「当然の前提として」語られている。
宗教の鞍替えによっては技術は何ら進歩しない。「流れ」が良くないのではない、その愚昧さが良くないのだ。
麻雀の分析は、あまりにも直感的なものが主流であり、もはや「教義の焼き直し」状態に陥っている。
論理的に麻雀を研究できる同志にのみ、麻雀界の今後を託したいものである。
(引用終了)
この凸の発言を見る限り、「量産型デジタル」というのは昔もいたんだな、と思わされる。
とはいえ、私自身でさえ、ここに書いてある「論理的に麻雀を研究できる同志」に該当するのかはなはだ疑問だったりするのだが。
では、今回はこの辺で。
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