多国籍国家カナダに住んで8カ月|多民族共生ってなんだろう
カナダ・バンクーバーに来て、なんやかんやで8カ月が経過した。
春、夏、秋を快適に過ごし、始まってしまった暗くて長い冬をどう乗り越えるかに悩む日々である。
カナダは11月最初の日曜日にサマータイムが終わり、現在は朝7時半日の出、日中は雨もしくは曇り、16時半日の入り、とほぼ日差しを感じられない生活を送っている。
そのせいかこの1か月ほど体が疲れやすい。
バンクーバーに到着してすぐに購入したものの、これまで出番がなかったビタミンDのサプリメントを、本日ようやく引き出しから引っ張り出した。
雨季に入ったバンクーバーはやることがない。そのため考え事が増える。
今日の学校からの帰り道、バスに並んでいる人種の多様さを見ながらふと、この8カ月で移民問題に対する自身の考え方が変わったことに気が付いた。
センシティブな内容なので賛否両論があることは十分承知の上だが、noteは自分の考えを思うままに吐き出す場として、今現在の思いをまとめてみたいと思う。
バンクーバーに渡航するまでは
わたしは大学時代にトロントに一時滞在をしていた。
大学で人種問題を勉強していたこともあり、多民族が交わり合って一つの都市を作り上げているトロントの環境が、とても魅力的であり一種の正解のように思えた。
日本は今後人口がどんどん減っていく。
労働力の確保という点で移民の受け入れは避けられない政策だと個人的には思っているし、バンクーバーに来るまでは日本が移民をどんどん受け入れることが日本文化(というか凝り固まった日本の慣習?)にとっても良い刺激になるのでは、と移民政策賛成の立場だった。
これは私のパートナーが日本人ではないことも関係しているかもしれない。
彼との生活を通して、日本以外の常識や価値観、生活スタイルを知ったことは、自分の視野を大いに広げてくれた。
特に日本の働き方は諸外国を見て見直すべきものが多いと思ったし、今でもその考えは変わらない。(現在バンクーバーでバイトをしているが、終了時刻の2分前に接客をしていた際、同僚に「おい!接客変わるからはよ上がらんかい!」と言われたのは記憶に新しい。もう働いて4カ月になるが、時間ぴったりに始まり、時間ぴったりに終わる事に慣れない自分の社畜ぶりに、たまに悲しくなる)
多民族共生ってなんだろう
他国の文化や価値観を知ることは、今まで考えつかなかったものの見方を学ぶことでもあり、自分の生き方を豊かにしてくれる。
しかしながら超多民族都市バンクーバーに住んでみて、多文化と「共生する」のは、「多文化を尊重し交わり合いながら生活する」わけではないのかもしれない、と思い始めた。
バンクーバーに来て最初に思ったのが、同じ人種同士でつるむ人をよく見かけること。
そして8カ月住んでみた今気づいたのが、「同一民族が一定数以上移民すると、郷に従うよりも、独自のスタイルを貫いてコミュニティを形成し始める」こと。それが許される環境に移民が集まるのだ、ということ。
わたしも外国に住んでみて気づいたが、自分の中にある無意識の価値観や行動習慣はなかなか変えられない。
今も電車の中で電話することに躊躇うし、乗車前は無意識に列に並んでしまう。(列がなくても誰かの後ろに立ってしまう)
留学生同士で話しているときは、南米系のマシンガントークの切れ目がわからず、聞き役に徹してしまうときも多い。
「ああ、自分って超日本人だったんだなあ」と改めておもう。
そしてこの異文化生活に疲れたとき、「ああわかるわかる、異文化だよねえ」と共感しあえる日本人コミュニティのありがたさをひしひしと感じる。
わたしがバンクーバーに住むのは短期間と決まっているため、留学中はなるべく色々な人種の人と関わるようにしているが、もしこれがカナダに骨を埋めるつもりで渡航していたら、心のオアシス・日本人コミュニティにどっぷり浸かっていたかもしれない。
バンクーバーは多文化が混ざり合って互いを尊重しながら都市を形成しているというよりか、
多文化がそれぞれ独自のコミュニティを形成し、お互いに干渉せず一定の距離を保つことで都市として成り立っているような感じがする。
バンクーバーという一つの箱の中で
移民はバンクーバーが求める労働力を提供し、
バンクーバーは移民が求める第2の住処を提供しているだけで、
色々な文化が混ざっているわけではない、ような。(私が留学生コミュニティに属する一移民であり、バンクーバー社会に完全に溶け込んでいるわけではないから、そう見えているだけなのか?)
ただこのように様々な民族が1コミュニティとして確立できているのは、カナダの人口が多くなく、国の発展のためには他から人を流入させる必要があり、それゆえに昔から移民の受け入れに積極的だったという背景があるからだろう。
日本がカナダのように移民を多く受け入れた場合
日本は、他文化と「共生」できるのだろうか。
日本は島国という性質もあってか、他と比べても、歴史の中で作り上げられてきた「社会における暗黙のルール」が多いような気がする。
公共交通機関の静かさや順番待ちはもちろん、傍から見ると秩序が維持されているように見える日本人の行動は、大体の人が同じ教育を受け、同じような考え方を持っているからこそ成り立っているものなんだと思う。
それが、受けてきた教育や考え方が全く異なる人々が数多くやってきて、日本において一定数の人口割合を占め始めたとき、日本社会は彼らを許容できるのだろうか。
それよりも文化の違いの嫌な面ばかりが目について、「移民が日本の良さを壊している!」と、ヘイトが生まれる結果にならないだろうか。
1,000年以上独自の文化と暗黙のルールを作り上げてきた日本にとって、
文化も生活スタイルも価値観も異なる移民を受け入れ
1コミュニティとして確立させ尊重していくのは、
移民の歴史が長いカナダや様々な国と国境を接し繋がってきたヨーロッパ以上に、沢山の壁があるのではないだろうか。
とはいえこの超高齢化社会・日本において、移民の受け入れはやっぱり避けられない政策だと思う。
そしてこの留学生活やパートナーとの交際を振り返ってみても、日本以外の文化や価値観を学ぶことは、自分の考え方や生き方をより多様なものにしてくれたと思う。
ただ、日本が移民政策をどう進めていけば上手くいくのかは、よくわからなくなった。一概に「大賛成です!」とも言えなくなった。
一つ確実なのは、日本がカナダのように移民を大量に受け入れるならば、かなり時間をかけないと難しいだろうということだ。
一移民としてバンクーバーで生きる中で、重要だなあと思ったことは
移民を受け入れる側は
・彼らの文化を理解し否定しない姿勢を持つこと
・彼らが従うべき公共ルールを言語化し教育すること
移民する側は
・その国の文化や歴史を勉強し、尊重すること
・公共のルールに従うこと
なんだかまとまりのない文章になってしまったが、バンクーバーのような超他民族都市で移民として生活できたことは、また新たな考えが生まれて勉強になった。(まだ終わらないのだが)
来年はまた別の国に行く。
そこでの経験が、今後の私の考え方をどう形作るのか、自分事ながら楽しみだなあと思う。