今日あったこと
今日私は初めて自分の口座というものを手に入れました。今まで親が私名義で管理する口座が存在することは知っていました。しかし自分でお金を出し入れできるわけでもなく、特に口座が欲しいと思うこともなかったので特に不自由していませんでした。
まあでもなんとなくそろそろあってもいいかなというような感じで、なんとなく通帳とカードをもらいました。
中をみるとまあお金が入ってました。
「お金入ってるな〜」と思いました。同時に「何のお金かな〜」と疑問に思いました。
親に尋ねました。
「今まで貰ったお年玉とか、実はこれで今まで教科書とか買ってました」と言われました。
私の心の中は「???」と同時に泣きそうになりました。
なんだか壮大な種明かししたみたいなテンションで言われたけど
親が私のお年玉を少なからず使っていることはわかっていました。でもどう考えても、こんなにお金は少なくないです。お年玉を使っていたことに泣きそうになるほど感情が動いているわけではないということはすぐわかりました。
私が泣きそうだったのはお年玉の使い道を言われていなかったことにあります。
子どもが親戚からお年玉をもらってそれを親に預ける時何を思うのでしょうか。
人のことは分かりませんが、私は確かに親を信用していたと思います。
根拠も何もありませんが、私の親は私の見えないところで私のお年玉に手をつけるような悪党ではないと思い込んでいました。
私だって断りのひとつさえあればこんなにぐちぐち言いません。親にはお金をかけて育ててもらっていることも理解しています。
けれど紛れもなくそれは私のお年玉でした。
信頼の関係の元に私は大切なお年玉を親に預けていました。
しかし、その信頼関係はとっくの昔から崩れていました。完全に私の片想いでした。
親からすれば大したことなかったのでしょう。何がこんなことで信頼関係だとも思うかもしれません。でも意外と信頼なんてこんなものなのではないのでしょうか。小さいことかもしれませんがそれがすべてです。
「ああ、この人たち私のこと1人の人間として考えてないな、所詮自分の子どもって認識してるんだな」
っていつも絶望します。そこに子どもの意思は反映されないことが当たり前なんでしょうか。親の意思は子どもの意思なのでしょうか。育ててくれてるから受け入れるのでしょうか。なんで今までお年玉使ってるって一言も言ってくれなかったのでしょうか。悲しい。
と、お年玉の使い道の説明がなかったことをぐるぐるぐるぐる今日一日中考えていました。
親への信用がまた少しなくなった瞬間でした。
大人になったらこんな気持ち忘れるんでしょうか。
自分に子どもができたら、自分の子どもは1人の人間として認識できなくなるのでしょうか。
そうであるなら私は大人にも、親にもなりたくないです。
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