【天涯客(山河令)日本語訳】第6章 美人

場にいた者たちは誰一人声を発せず、素早い視線を交わすと、もはや張成嶺ジャン・チョンリンには目もくれず、ゆっくりと輪を作り、顧湘グーシアン周子舒ジョウ・ズーシュウの二人を包囲した。

顧湘は小さく溜息を吐いて言う。
「ついてない。三百年ぶりに善行なんて、しようとするものじゃないわね、一瞬で面倒事に巻き込まれるなんて。
周兄ジョウにい、私はか弱い女子なの、こんな大人数相手にするのははじめて。
怖くて仕方ないわ、あなたが守ってよね」

最後の一言はまさに语不惊人死不休(※衝撃的なことを言わないと満足できない人を指す)そのものだ。周子舒は思わず息を飲み、平然としている顧湘を心底嫌な表情で一瞥した。

そんな顧湘は深い恨みでも含んでいるような目つきで彼に対抗する。

覆面の男たちは、思惑の違う艶めかしい二名の視線のやり取りを場違いだと感じたようだ。誰かが口笛を吹くと、先頭の一人が仕掛け、後ろの者たちが続く。やがていつの間にか、網のような陣形を作り、二人を中に追い込み閉じ込めた。

顧湘はようやく真剣な表情になり、「あら」と声を上げる。
好奇心が湧いてきたのか、先ほどまでの”か弱い”演技をやめて、周子舒のことも構わず、小さな短剣を取り出して立ち向かっていった。

いざ交戦してみて初めて、この陣形の恐ろしさを知る。

彼女は自分の武芸に自信を持っていた。相手は十四人いるが、一対一なら誰一人として彼女の敵ではないかもしれない。しかし、この隙間なく迫り来る圧迫感は、まるで四方八方から無数の手足が伸びてくるかのようであった。

荒波のように押し寄せる圧力に、戦いながら後退せざるを得ない。その陣形も彼女に合わせて収縮し、ついには退く場所もないほどに追い詰められた。

顧湘は心中で戦慄を覚え、周子舒の傍まで退き、二人は背中合わせになる。
周子舒は鋭い目つきで彼らから一瞬も目を離さず、顧湘に小声で言う。

「甘く見すぎていたようだな」

顧湘は応戦に追われ、額に薄ら汗を浮かべながら尋ねる。
「これは…なんて陣形なの?」

「見たことはないが、聞いたことはある。十四人で構成する陣法で、八荒六合陣はっこうろくごうじんというらしい。生生不息 无穷无止(※生きとし生けるもののように尽きることなく続く)、互いが完璧に呼吸を合わせれば、一人一人の僅かな隙もほかの者が補い合う。まさに天衣無縫というべき陣だ…」

顧湘が驚きの声を上げた時、周子舒は手を挙げ、素手で打ち下ろされる刀刃に立ち向かい、肉体の限界を超えたような強烈な力で その一撃を退けた。

顧湘は慌てて尋ねる。
「じゃあ、どうすれば?」

周子舒は答えず、視線を鋭くしたと思えば、突然身を躍らせ香案を踏む。
埃を被った古びた香案は、まるで力が加わっていないかのように微動だにせず、彼はそこから更に空中へ跳躍した。

すぐさま相手の三人が彼と共に飛び上がり、刀光の中で全ての退路を塞ぐも、周子舒は彼らの予想に反して前進せず、魚のように身を翻し、花の間を縫うように、瞬く間に仏像の側面へと移動したのだ。

その後、彼がどう力を込めたのかは分からないが、軽く声を発し、手を伸ばして一押しすれば、その石の仏像が一掌の力で押し出されてしまった。

周子舒は静かに言う。
「我が仏よ 慈悲深く、この弟子を今一度お救いください」

その石仏は一体どれほどの重さだったのか。猛烈な勢いで風を巻き起こしながら飛んでいく。顧湘も思わず息を呑み、咄嗟に身を屈めた。

風が頭皮をかすめるのを感じた瞬間、周子舒を仕留めようと空中にいた三人の姿が目に入った。

これほどの速さの身法とは予想だにせず、力を借りることも逃げることもできない彼らは、ただ全力で受け止めるしかない。だが、そのような重みを受け止められるはずもなく、三人は仏像もろとも吹き飛ばされ、あれほど緻密だった陣形に、一瞬にして大きな隙が生まれた。

顧湘は”へへっ”と笑う。
「面白いわね」

顧湘が素早く手を上げた瞬間、電光石火の如く袖から矢が放たれ、真正面の男の面頭を射抜く。覆面の男は声を上げる間もなく、仰向けに倒れ込んだ。残りの者たちはもはや形勢も整わず、顧湘は殺気を帯びたまま、容赦なく戦いの渦に飛び込んでいく。一方の周子舒は、先ほどの一撃により、まだ回復していなかった内息を使い果たし、一時的に手足が痺れていた。それ以上は無理をせず、悠然と香案の上に腰を下ろしていた。

しばらくして顧湘はようやくその姿に気が付き、戦いの最中であるというのに、振り返って罵った。

「周絮、あんた何してんの?」

顧妹グーメイよ、私は一介の弱き乞食。こんな大きな事態は初めてだ。怖くて仕方ない。君の守りが必要なのだよ」
周子舒はのんびりと答えた。

その言葉に顧湘は思わず手が震え、覆面の男の胸を一突きで貫いてしまう。短剣は肋骨に引っかかり、抜けなくなった。

顧湘は身のこなしこそ軽やかだが、長期戦には向いていない。武器を失ったことで少し慌てた様子で三歩後退し、やっとの思いで攻撃を受け流した。

周子舒は息を整え、しかし急いで助太刀をしようとはせず、にこやかに戦いを見つめながら、小石を拾い集めては手の中で弄んでいる。

そして突然、一つを弾き飛ばすと、
不意打ちを狙っていた覆面の男の額を直撃した。

「駄目だ、駄目。お嬢さん、型が崩れているぞ」

そう言うや否や、電光のように素早く石を弾き、一人の環跳穴(※腰の急所)を打ち抜く。その男は体勢を崩し、偶然にも顧湘の足元に滑り込んだ。顧湘は反射的に足を上げ、繍靴から光が走ったと思えば、短刀が飛び出して男の喉を貫いてしまった。

その様子を見た周子舒は悠然と言う。
「下盤は基礎だ。歩みに根がなく、動きにも定まりがない、失敗するに決まっているだろう?」

さすがに顧湘は聡明だ。身を屈めて一刀をかわすと、横に足を出して相手の膝裏を蹴る。その男が前によろめいた瞬間、手首を掴んで長刀を奪い取り、百会穴(※頭頂部の急所)へ一撃を加えて彼を閻魔の元へと送った。

周子舒は再び石を弾き、一人の肩井大穴(※肩の急所)を直撃する。男が前方に飛びかかろうとした瞬間、この不意の一撃を受けて半身が痺れ、動けなくなる。男がそのまま勢いに任せて地面に倒れ込むと、疫病神のような乞食はまた冗談まじりに、嘆くように言った。

「駄目だ、駄目。陣形は既に乱れているというのに、焦って突っ込むとは。まさに顾头不顾腚(※頭ばかり気にして尻を気にしない。前後考えなしに行動すること。頭隠して尻隠さず。)というものだ」

顧湘はその言葉を聞くと、たちまち蓮華歩のような軽やかな足さばきを繰り出した。突進してきた覆面の男の剛力をいなす。男が反射的に刀を横に振るって態勢を立て直そうとするが、その隙を顧湘が見逃すはずもなく、さらに二人を始末した。

地面には次々と横たわる死体が瞬く間に積み上がり、残った者達は事態の不利を悟ると、互いに目配せをして退散を始めた。

周子舒は眉をひそめ心中に思う。

ー奴らは厄介だ。あの少年を太湖の趙家まで護送すると約束はしたものの、道中追っ手に付き纏われるのも面倒だ。このまま逃がせば、途中でまた対処することになるだろう。もし逃がしたら、道中でまた襲われるだろう。それに、騙し討って一族を皆殺しにするような陰湿な連中をこのまま放っておいていいはずがない。ー

顧湘の目の前で一瞬、人影が閃く。先ほどまで香案に座っていた男が、まるで柳の綿毛のように、突如として庙の入り口に現れたのだ。
先頭の黒装束の男は不意を突かれ、肩で押し退けようと体を傾けるも、「ごりっ」という音と共に肩が外れてしまう。

周子舒は男の首を掴み、指の力だけで頸を捻り切ると、足先で落ちていた刀を拾い上げる。青白い顔に、鬼のような不気味な笑みが浮かぶ——

顧湘が反応する間もなく、入り口に向かって逃げようとしていた覆面の男たちは、いつの間にか全て死体と化していた。

彼女は思わず瞬きを繰り返し、心中で訝しむ——
この男の物腰から、大門派出身の大言壮語な調子乗りかと思っていたけれど。まさかこれほど手際よく、残忍に始末するとは。
一体何者なのか、見当もつかなない。

しかし、その威風堂々とした姿とは裏腹に、周子舒の体はまだ完全には回復していなかった。地面に降り立つと、脚の力が弱まり、止まる間もなく数歩後退する。一見すると優雅な身のこなしであったが、実際には狼狽しながら支えを求めているだけであった。

そのとき突然、背後から差し出された両手がしっかりと彼を支える。

周子舒は身震いをした。
この人物がいつ近付いたのか、全く気が付かなかった。

全身の毛が逆立つ。

幸い、その人物は彼を支えただけで、
それ以上の行動をすることはなかった。

顧湘の目が輝きを増し、彼女は声を上げる。

「ご主人様!」


周子舒はようやく小さく息を吐き、落ち着いて振り向く。
彼を支えた人物は、あの酒楼で見かけた灰衣の男であった。

近くで見ると、二十八、九歳ほどで、端正な眉目の持ち主だが、あの真っ直ぐで見透かしたような視線は、どうも人を不快な気分にさせる。

今もその目は周子舒を捉えて離さず、まるでその皮の下まで見通そうとするかのような、極めて無礼な視線を向けている。

周子舒はごまかすように咳払いをした。
「感謝する、貴方は...」

「温、温客行ウェン・クーシンだ」
灰衣の男が言う。

その声に続き、彼の表情に少し疑いの色が浮かび始めた。周子舒の首と手に視線を落とすと、その疑いの色がさらに濃くなったようだ。

この男が何を見ているのか分からないが、周子舒は泰然としていた。

自分の技は自分が一番分かっている。簡単に見破られていたのなら、十年前にはもう首が飛んでいただろう。そう言い聞かせ、落ち着き払って言った。

「ああ、温兄。ありがとう」

灰衣の男はしばらくの間見つめ続け、何を見ているのかも分からぬまま、暫くするとようやく視線を外して頷き、「気にするな」と言った。

言い終わると、彼は堂々とその荒れた廟に入っていく。
顧湘は手早く死体たちを脇へと蹴り寄せ、茅草で清潔な場所を作って彼を座らせる。

その後、温客行は再び周子舒を一瞥したが、それだけでは気が済まないとでもいうように、わざとらしく付け加えた。

「悪気はないさ」

周子舒は、顧湘の生意気な性質たちが誰譲りなのか、すぐに理解した。そしてそのまま何も発さず、端に座って調息を始める。

一時辰(※約2時間)以上が過ぎ、周子舒が目を開くと、温客行が壁に寄りかかり、片足を曲げ、まだ首を傾げて観察しているのが見えた。

周子舒はそんな視線に堪らず言った。
「私の顔に何かついているのか?
温兄がこれほどまでに長く見つめてくれるとは。」

温客行は無表情に平然と言う。
「君、易容(※顔を変えている)しているんじゃないか?」

周子舒は心が引き締まったが、表情には出さずに問いを返す。

「何だって?」

温客行はそれには答えず、独り言のように呟く。

「奇妙だ...実に奇妙だ。私には君が易容しているのが分からない。手を加えていないとすれば、うーん...」

彼は手で顎を撫でながら、非常に不思議そうに続ける。

「私はこれまで人を見る目を誤ったことがない。君の背中の胡蝶骨(※蝶々のような形をした肩甲骨)からして、間違いなく美人だと思ったのだが」

それを聞いた周子舒は、返す言葉を失った。

温客行は頷き、独り言を続けている。
「私の目に間違いはない。君は必ず易容しているはずだ」

周子舒は引き続き無言を貫いた。

温客行は諦めることなく彼の顔を凝視して必死に観察し、しばらくして、ようやく諦めたように首を後ろに反らす。

「しかし、どうしても破綻が見つけられない。この程度の江湖の小細工で、私に見破られないほどの腕前を持つ者などいるのか?いや存在しないだろう。ありえないありえない...」

顧湘が冷ややかに言う。
「ご主人様、この前も豚屠夫の後ろ姿を指して、
美人だと断言なさいましたよね」

温客行は静かな声で言い返した。
「あの人は屠夫ではあったが、あの水光潋滟(※水面のようにきらめく潤んだ目)で顾盼生姿(※魅力的で美しいまなざし)な目だけでも、美人と呼ぶに相応しい。英雄でさえ出自を問わないのに、屠夫がなんだというのだ?お前に何が分かる。やはり子供は美醜が分からないものだな」

顧湘は溜息をつく。
「水光潋滟、顾盼生姿?ただの欠伸の後の拭い残した涙じゃありませんか?それに、あの広い鼻に分厚い唇、太った顔、耳まで...」

温客行は断固として言う。「阿湘、お前の目が悪いだけだ」

周子舒はすでにゆっくりと立ち上がり、黙って張成嶺の様子を確認に向かっていた。