【天涯客(山河令)日本語訳】第5章 悪鬼
「私は張、張成嶺と申します」
丸い顔には黒くすすけたような汚れがあり、様々な色が混ざり合っている。身につけている服はボロボロに引き裂かれているものの、その下地の錦の生地からは庶民とは思えない身分が窺えた。
「周……」 彼は言葉を止めた。この乞食のようなみすぼらしい男を、どう呼べば良いのかわからなかったのだ。
「叔父でいい」と周子舒は厚かましくも答えた。
張成嶺は笑顔を作ろうとするが、それもぎこちない。再び俯いた彼の目に映るのは、埃と茅が散らばる荒れ果てた寺の床である。心は茫然とし、一瞬、今がいつなのかも分からなくなった。あまりにも激変した一晩の出来事に、彼の心は状況を受け入れられずにいるようだ。
「張成嶺?どこかで聞いたような名前ね」
「お前の父親は、南河庄の当主、張大侠なのか?」
周子舒が尋ねると、「あなたが張玉森の息子なの?」と顧湘は思わず声を上げた。その表情には、「張玉森にこんな役立たずの息子がいるなんて」という疑念が、露骨にあらわれている。
彼女の表情に気付いた張成嶺は、より一層深く俯き、両手を固く握りしめたまま、体を縮こませた。
「いや。全く気が付かなかった。失敬、失敬」
周子舒は態とらしく咳払いをし、顧湘の容赦のない精神攻撃を慌てて遮った。このむすめが人の嫌がることを好んで言うたちだと分かっていたからだ。
「あなたの父親、少しは有名みたいね…」
顧湘は豆をこぼすように矢継ぎ早に話し始める。
「私たちが一昨日来た時に、もう噂は聞いていたわ。若い頃はかなりの腕前だったんですってね。ここ数年は家も事業も大きくなって、半ば隠居みたいにこの土地に住み着いて、もう何事にも関わっていないらしいけど。屋敷には腕の立つ清客(※主家に寄宿し、武芸の腕前で名家の権威を守る食客)も大勢住んでいるから、誰も厄介ごとを起こそうとはしないって。そんなお偉いさまの息子を、誰が真夜中に追い回して殺そうとするっていうの?」
彼女の口調には、他人事のような軽さが漂う。
横にいた老婆が不満げに口を開く。
「私どもの旦那様は、この上なく善良な方で、立派な武芸者でもいらっしゃいます。お心が広く、義に厚い方で、困った方が助けを求めてこられれば、知り合いであろうとなかろうと、惜しみなく財を投じて手を差し伸べてくださる方なのです…」
顧湘は嘲笑うように鼻を鳴らし、意地の悪い調子で言った。
「あら、おばさま。この坊ちゃんのお父様が立派な方だってことは、みんな分かってますよ。でも大侠だの英雄だのって、何になるっていうの。真夜中に追いかけ回されて切りつけられるんじゃ…」
張玉森は齢五十にして、「徳高望重」(人徳が高く、尊敬されるべき人物)と称されるに相応しい者であった。若くして妻を娶り、子をもうけてからは、江湖での活動を控えていたが、武林の盛大な催しごとなどがあれば、敬意を示すために必ず招かれる存在である。
周子舒は、この娘が無意識とはいえ、いささか亡くなった者への敬意がなく不遜な態度をとっていることが気にかかり、彼女の話を遮って質問を投げかけた。
「さっきお前たちを追い回していたのは、何者だ」
張成嶺は少しの間沈黙し、小さな声で答える。
「吊死鬼(※首吊り鬼)の薛方です」
「誰だって?」
「誰って?」
周子舒と顧湘がほぼ同時に声を上げる。周子舒は眉をひそめ、顧湘は奇妙そうに驚いた表情を浮かべる。
「吊死鬼の、薛方です。他の人がそう呼んでいるのを、この耳で聞きました…」張成嶺は一言一言区切って言うと、突然、深く息を吸い込んだ。
彼は何かを思い出し、何かを悟ったかのように震え始めた。今夜の血と、炎と、悲鳴の全てが目の前に浮かび上がった。顔は青ざめ、全身が痙攣し、もはや言葉も発せなくなった。
「まさか、羊角風(てんかん)じゃないでしょうね?」
顧湘は驚いて彼を指差す。
周子舒は深刻な表情で張成嶺を支え、彼の睡穴(※経穴の一つで、眠りを誘う急所)に手をかけると、少年は周子舒の腕の中へと崩れ落ちる。
慎重に脇へ寝かせると、周子舒は溜息を吐いた。
「ようやく何が起きたのかを理解し始めたんだろう。
精神的な衝撃が強すぎた。しばらく眠らせておこう」
「大娘、張家は誰かの謀略にでも遭ったのか?」
続けて途方に暮れた様子の老婆の方を向いて尋ねる。
老婆は張成嶺の様子を見つめながら、途方に暮れた様子で、涙と鼻水を垂らしながら取り留めもなく話し始め、ようやく事の次第を説明し始める――
その日の夜半、張家の裏庭で突然火が上がり、どこからともなく現れた黒装束の集団が、まるで悪鬼のように空から降り立ったのだという。
最も恐ろしかったのは、普段ならちょっとした物音にも反応する「高手(※武芸の達人)」たちが、誰一人として立ち上がることができず、いつの間にか皆やられていたことであった。
ただ、一人、老李という例外がいた。五年前に蘇州河のほとりにやって来て、渡し舟の仕事をしながら、ひっそりと張家を守っていた男だ。
しかし彼は、庄内に入ることは頑なに拒み続けていた――
彼の言い分では、張家の飯を食べれば清客や用心棒として飼われることになる。そんなことは望まない、自分は恩返しに来ているのだと。
この変わり者のおかげで、張家はなんとか最後の血筋を繋ぎ止めることができたのであった。
しばらくして、周子舒は溜息交じりに言う。
「その李兄という者は、まさに風尘の中の異人だな」
彼は老婆の方を向いた。
この老婆は使用人として雑用をこなすだけの身。何も理解できず、混乱したままにただ涙を流すばかりであった。
「大娘、親戚はいるのか?」
老婆は頷いた。
「城南に甥が一人おります」
周子舒は懐から金の元宝(※中国古代の金貨)を取り出し、
彼女に手渡して続ける。
「これを持って、自分の道を探すといい。貴女は張家の若旦那についてここまで来て、十分に忠義を尽くした。その歳で、野宿などする必要はない」
老婆は金を受け取ると、無意識に歯で噛んでみる。そして我に返り、少し照れくさそうに笑うと、やがて涙も止まり、口調も明るくなった。
「そうですね。こんな年寄りがおりましては、若旦那様の足手まといになりますもの」
金を手にした彼女は、この茅と死体だらけの場所に一刻も留まりたくないといった様子で、それでは。と言った。
薪を焚いたり、雑用をしていただけの身なら、誰も手を出さないだろう。周子舒は特に何も言わず、彼女が何度も礼を言いながら去っていくのを見送った。
夜半を迎えた頃、周子舒は胸に針で刺されるような痛みを感じ、あの七窍三秋钉がまた症状を引き起こしたのだと悟る。
その痛みは肉を引き裂かれるような痛みでも、内傷の鈍い痛みでもない。まるで誰かが小刀を手に、全身の経脉(※気血の通り道)に沿って一寸ずつ切り裂いていくかのようだった。
幸い、これまでの一年間でこの痛みには慣れていたため、表面上は何も気にした様子を見せず、平静を保った。人皮の面具のお陰で、顧湘にはその顔色も見抜かれなかった。
その時、張玉森の話をした時の彼女の無関心な態度と、神龍のように姿を見せたり隠したりする主人のことを思い出し、周子舒はなんとか注意を他に逸らそうと尋ねる。
「今日、酒楼にいたあの者とは一緒ではないのか?」
顧湘は一瞬驚いて問う。
「どうして私と一緒にいたって分かったの?」
しかし、すぐに頷いて続ける。
「そう、私たちの会話を聞いていたのね――あの時、私の質問に対するあなたの答え方、私のご主人様と同じだったのよねぇ」
彼女は唇を尖らせ、彼の狡猾なやり方に心底軽蔑の色を見せる。
周子舒は笑みを浮かべて言った。
「ああ、お前の主人もここにいるのか?」
顧湘は香案(※供え物を置く祭壇)の上に腰掛ける。
地面に届かない両足をぶらぶらと揺らしながら、首を傾げる姿は天真爛漫で可愛らしさがある。
彼に問われると、少し目を伏せ、肩をすくめて言った。
「お気に入りのところへ行ったわ」
周子舒は、その灰衣の男がこれほど美しい少女を傍に置いているのは、彼女を侍妾のように思っているのだろうかと考え、疑念の目で彼女を見た。
顧湘は鼻をにしわを寄せて、彼を睨みつけて罵る。
「何をじろじろ見てるの?あの人は男と寝に行ったのよ。この私に窓の外で物音を聞いていろっていうの?」
周子舒は咳払いをし、少し気まずそうに鼻を擦る。
「お嬢さんがそんなことを…」
顧湘は小動物のように牙を剥いて見せると、何か思い出したように、意識を失って茫然としている少年、こと、張成嶺を足先で突っつく。
「彼の言ってたこと、信じる?あの黒装束の人が吊死鬼だって」
周子舒は少し躊躇ってから言う。
「もし…彼の言うそれが、青竹岭の悪鬼衆の吊死鬼に関連しているのであれは…」
「随分詳しいのね。この世にそんなにたくさん吊死鬼がいるっていうの?」
顧湘は皮肉めいた目で彼を見た。
周子舒は首を振り、何か言おうとしたその時、胸の鈍痛に言葉が途切れた。
深く考え込んでいるような様子を装い、しばらくしてから冷静に言う。
「風崖山と青竹岭に、鬼谷と呼ばれる谷があるという。近年、江湖で重罪を犯した者や、庇護を求める者たちが行き場を失うと、鬼谷へ向かう。
一度鬼谷に入れば、もはや人としては生きられず、世中の恩讐は終わりを迎える。鬼谷で生き延びることができれば、九死に一生を得たということだ。
鬼谷にまつわる噂があまりにも恐ろしいため、仇敵でさえもそれ以上は追及しないという。俺が聞いた話では、吊死鬼の薛方は昔、悪名高い采花贼(※女性を誘拐する者)で、二十六人もの若い男女の命を奪った。その中には峨眉派掌門の直弟子も含まれていた。六大門派に追い詰められ、やむを得ず青竹岭の鬼谷に逃げ込んだそうだ」
顧湘は瞬きをする。
「じゃあ、その人が薛方だって言うの?」
周子舒は笑って答える。「薛方は三十年もの間、名を馳せてきた極悪非道の輩だ。お前のような小娘に簡単にやられるわけがないだろう」
顧湘は反論しようとしたものの、少し考えて、納得したように頷く。
「そうね。吊死鬼が私にあっさりやられるなんて、それこそ私のご先祖様の墓から青い煙が立つくらいの珍事よ――でも、私には父も母もいないし、ご先祖様の墓がどこにあるかも分からない。そもそもないかもしれないわ。
だったら青い煙なんて立つはずもない。ということは、やっぱり吊死鬼じゃないってことね。」
周子舒には、顧湘がなぜ青煙と吊死鬼を結びつけたのか理解ができなかったが、何かを理解したかのような得意げな様子を見ると、打ち消す気にもなれなかった。それに、体中もひどく痛んでいたため、何も言わずにそのまま目を閉じて横たわり、静かに夜明けを待つことにした。
あの七窍三秋钉は毎日夜半に必ず発作を起こすため、彼はいつも早めに就寝し、子の刻には十分な精神力を蓄えて夜半を乗り切るのだが、今日は邪魔が入り、後半夜は眠れなくなってしまった。
ただ歯を食いしばって黙って耐えるしかない。
東の空が白み始めて、ようやく和らいできたが、周子舒の体はすでに麻痺したようになっていた。
少し調息をしていると、突然、仏龕に寄りかかって仮眠をしていた顧湘が目を覚まし、杏仁のような目を一回りさせ、短く放った。
「誰か来たわ」
周子舒は眉をひそめる。彼も当然気付いていた。すぐに立ち上がろうとするが、よろめいて立てない。顧湘が驚いた様子で見ていることに気付き、ゆっくりと香案につかまって立ち上がりながら、小声で言った。
「足が痺れただけだ」
あまりにも安っぽい言い訳だったため、顧湘の表情はさらに驚きの色を濃くした。
周子舒は夜明け前が最も体力の落ちる時間帯であることを知っており、人と戦う気にもなれず、こう続けた。
「隠れて待つぞ」
「隠れる?どこに?」
顧湘は無邪気さを含んだ大きな目で彼を見つめる。
周子舒はその目を見て一瞬で力が抜けた。
もう動く余裕はなかった。覆面集団が洗練された動きで扉を破り、気を失っている張成嶺を一目見るや否や、二言もないうちに荒々しく襲いかかってくる。
周子舒は香案に寄りかかったまま、一人の覆面の男が少年に向かって横刀を振り下ろすのを見ていたが、その動きを見極める間もなく 人影は一閃し、人皮面具と同等なほど枯れた指が覆面の男の首を掴んでいた。
覆面の男は悲鳴を上げる間もなく、体を一度痙攣させ、息絶えた。
この非情な一撃に、全ての覆面の男達は思わず足を止め、一見立っているのもやっとのような病人を警戒して観察する。
顧湘は密かに舌を出し、香案から飛び降りて周子舒の後ろに立つ。
彼は一瞥で 奴らがただの脅しの役者に過ぎないことを見抜き、
その慎重な様子からも死士や刺客ではないことを察する――
もし以前の天窗の刺客ならば、仲間が一人死のうと、自分の首が掴まれようと、躊躇なく目標に突っ込んでくるはずなのだ。それに、伝説の悪鬼衆でもあり得ない。悪鬼たちは各々が勝手に行動し、この者たちのように統制が取れているはずがないのだから。
どうやら、奴らは張家に狙いを定めているらしい。
彼はゆっくりと袖を整える。まるでその破れた衣服が、銀の縁取りのある長袍であるかのように。しかし、動作半ば、姿に見合わないと気付くと動きを止め、かすかに笑みを浮かべて言う。
「早朝から挨拶もなしに武器も持たない子供に襲いかかるとは、
身分が廃るぞ」