【天涯客(山河令)日本語訳】第13章 露面
周子舒は突然足を止め、眉を寄せながら地下洞窟の四方八方に通じる出入り口を注意深く観察すると、唐突に言い放った。
「この地下洞窟には流水があり、風も通っている。
誰かが薬物を仕掛けるのは不可能なはずだ」
自分は薬物の専門家とは言えないものの、現在の皇帝が太子であった頃、都で人質となっていた南疆の巫童と親交があった。
その巫童は若かりし頃、「巫医谷」の名を借りて中原の武林で布石を打った際、数々の未知なる南疆の秘薬を彼を通じて流通させていたのだ。
周子舒は*豚を食べたことはなかったが、豚が走り回る様子は長年目にしてきた。これほど長時間にわたって真偽の判別すら困難な幻覚を引き起こす薬など、聞いたこともない。
温客行はこの言葉を聞いて頷き、尋ねる。
「ということは、誰かが奇門遁甲術を使って、我々をここに閉じ込めているということか──その術について、君は何か知っているか?」
周子舒は落ち着いた様子で答える。
「いわゆる『三奇』『八門』『六甲』のことか?」
温客行は驚いた。
「雑学も相当なものだな。
それにも精通していたとは...」
「いや、全く分からない。
『奇門遁甲』という言葉を聞いたことがあるだけだ」
周子舒は変わらぬ落ち着きで言葉を継いだ。
もはや歩く気力も失せ、そのまま地面に腰を下ろし、壁に背を預ける。ふと、不用意に傷を引っ張ってしまい表情を歪めつつも、息を呑んで考えた。
一頭の獣にここまで痛めつけられるとは。まさに猫にも嫌われ、犬にも見放されるというわけか。
温客行は、少なくとも自分は「三奇八門」の意味を知っているという優越感を覚えたものの、周子舒が二銭で自分を売り渡したという奇妙な出来事を思い出し、その優越感も虚しいものに感じられた。
結局、彼の傍らに腰を下ろし、横目で周子舒の肩の傷を見やりながら、他人事のように意地の悪い言葉を投げかける。
「余計な真似をするからだ。
水の怪を少女と思い込んで抱きしめるとは」
周子舒は目を閉じて気を養い、
彼の言葉には応えない。
温客行は黙ったまま立ち上がり、
しばらく離れた後に、また戻ってきた。
周子舒は肩に冷たいものを感じ、目を開けると、温客行が水に浸した小さな布切れで、ゆっくりと血に染まった傷口を拭っているのが見えた。
周子舒は反射的に身を躱そうとするが、
温客行に肩を押さえられる。
「動くな」
周子舒は顔を歪めながら尋ねた。
「その水はどこからだ?」
「河からだ」
温客行は答え、少し考えてから付け加える。
「流水だ。清浄なものさ」
周子舒は全身の寒毛が逆立つのを感じる。頭では、流水は綺麗で、傷を拭うどころか飲用しても問題ないとは理解している。しかし、その穢れなき河の流れの中で育まれた、あの異形の生物たちを思い出すたび、背筋が粟立つのを抑えられなかった。
温客行は鋭い目つきで彼の立った鳥肌を見逃さず、笑みを浮かべながら揶揄った。
「君自身が乞食のような姿をしているくせに、他のものが穢れているなどと言うのか?もういい、可憐な振りは止めて大人しくしていろ」
周子舒は彼の言葉が理にかなっていると理解しつつも、嫌悪感をにじませながら手にした布切れを見つめる。繊細な香りが漂い、隅には、小さいながらも精緻な蘭の花が刺繍されていた。どこか女性的な雰囲気を纏った布だが、女性のものとするには大きすぎ、模様も質素すぎる。
かといって男物となると...
一体どんな男がこのような品を持ち歩くというのか?
思わず温客行に奇妙な視線を投げかける。
周囲に人もいないことから、率直に冗談を返した。
「おや老兄、女性物を携帯しているとは。
何か言い難い事情でもあるのかな?」
温客行は血の滲んだ衣服を傷口からゆっくりと剥がしながら、この言葉を聞くと無表情のまま力を込める。傷口に張り付いた布を一気に引き剥がすと、周子舒は「ッ」と息を飲み、顔を歪める。温客行はようやく満足げな様子で、何事もなかったかのように答えた。
「これは揚州の花魁・素月公子より直々に下された品だ。見る目がないのなら、無知を晒さぬよう黙っているがいい」
そう言うと、その素月公子から賜ったという布を躊躇なく細く裂き、周子舒の傷口に巻き付けた。
周子舒は江南の風習がこれほど開放的だとは知らなかった。三十里の望月河畔の都でさえ、先帝という放蕩の限りを尽くした皇帝の時代でも、男性の花魁など聞いたことがなく、つい考えも及ばず口にしてしまった。
温客行は同情的な眼差しで彼を見つめ、問い返す。
「君は桃源郷で育ったのか?
天窗の者がこれほどの田舎者とは。
それとも私の推測が間違っていたか?」
周子舒は嘲笑うように返した。
「俺がいつ認めた...」
彼の話を聞き終わらないうちに、温客行は電光石火のごとく手を伸ばし、周子舒の胸の経穴を軽く突いた。
他の場所なら、衣服越しではほとんど感じないような力だったかもしれない。だが、周子舒の体力が極限に達し、七竅三秋釘の症状が全て出揃い、必死に抑え込んでいた今、このわずかな一撃はまさにラクダの背を折る最後の一撃となった。
彼は激痛に呻き声を上げ、腰を折り曲げて唸る。
「貴様...」
温客行は顎を撫でながら、深い意味を込めて言った。
「その内傷は相当深刻なものだな。それでもこれほどの身のこなしを見せるとは、天窗がお前を見過ごすはずがない。しかし、かの伝説の七竅三秋釘は最も命取りになる術と言われている。その名声に偽りはないはずだ。お前は飲み食いもして自在に跳ね回り、元気そのものだ。少々愚かではあるが、あの恐ろしい経穴術にかかった者の愚かさとは違う。もしや、私の推測が間違っていたのか?」
周子舒は大粒の汗を流しながら、歯を食いしばって言葉を絞り出す。
「温...客行、貴様の...先祖十八代まで呪ってやる...」
もはや上品な物言いや「温兄」だの「老兄」だのという体裁を取り繕わない様子に、温客行は罵られながらも、何か達成感のようなものを覚えた。
彼は毅然として答える。
「私は先祖の名も知らぬ。とうに亡くなっているし、呪うとは無理な相談だな。それを落として素顔を見せてくれて、もし美人であるなら、この身を捧げても良いのだが。」
周子舒は歯を食いしばり、体を海老のように曲げながら、反逆を企てる「釘」たちを内息で抑え込もうと必死に耐える。
そして傍らで饒舌に語り続ける温客行に、
ついに苛立ちを爆発させる。
「黙れ!」
温客行は罪悪感もなく、
傍観者として黙り込んだ。
どれほどの時が過ぎただろうか。
周子舒がようやく目を開けると、
その目には血走りが残っていた。
本来の顔色は誰にも分からないが、
良くないことは想像に難くない。
「夜が明けたな」
七竅三秋釘の症状が収まったということは、
外がすでに夜明けを迎えていることを指す──
二人はこの不気味な地下洞窟に、一晩丸々閉じ込められていたことになる。温客行は彼と同じように焦りを見せず、頷いた。
「どうやら誰かが意図的に君をここに誘い込んだようだな。この場所で命を落とすことを画策しているのだろう」
「お前を、だ」
「明らかに君だよ。
私は善人なのだから」
周子舒は彼の戯言など相手にせず、洞窟の土壁を頼りに立ち上がり、そこに寄り掛かりながら脱出方法を思案した。
すると温客行が再び尋ねる。
「周絮よ、死ぬのが恐ろしくないのか?」
「恐ろしい」
温客行は少し意外そうに彼を見つめ、
周子舒は真面目な面持ちで続けた。
「まだ善行を積み終えていない。
今この世を去れば、閻魔が来世で
俺を何に生まれ変わらせるか分からないだろう?」
温客行はしばし考えて、断言する。
「それなら、
君は前世できっと良からぬ者だったに違いない」
だが、周子舒が答える前に、
ひどく真剣な面持ちで再び問いかける。
「もし君が良からぬ者で、
今さら善行を積もうとしているのなら、
それは有効なのだろうか?」
周子舒は背筋を伸ばし、
ある方向へ歩き出しながら何気なく答える。
「なぜ無効になることがある。
『*放下屠刀,立地成佛』。
聞いたことがないのか?」
「どこへ行くのだ?」
温客行は慌てて立ち上がり、後を追いながら尋ねる。
「犬の肉を食べに行く」
周子舒は続ける。
「今のところ、
奴は我々をここに閉じ込めているだけだ...」
「君を、だ」と温客行が訂正した。
それでも周子舒は目を左右に回しながら続ける。
「あの獣は体格が大きい。数日は持つだろうな。最悪の場合でも、河の中の生き物がいるから飢え死にする心配はない。黒衣の者が何者であれ、いずれ姿を現すはずだ」
「昨日まで河の水を穢れていると言っていたくせに、
今日は水中の化け物を食べようというのか?!」
温客行は顔色を真っ青にして叫ぶ。
「つまり、お前は餓死を選び、
水中の化け物の餌食になりたいというわけか」
周子舒は斜めから一瞥を送り、こう結論付けた。
「温兄こそ、まさに聖人だ」
地下洞窟には光がないものの、周子舒は深夜の脱出を計画していたため、複数の火打ち石と、金持ちから奪い取った小さな夜明珠を持っていた。珠は極めて小さく、僅かな光しか放たないが、二人が物を識別するには十分だった。
その微かな光に照らされた周子舒の横顔は、温客行には胃を悪くするような表情や容貌は見えず、ただ一対の輝く瞳だけが、何とも言えない揶揄と興味を帯びて斜めに向けられている。
その眼差しには、どこか見覚えがあった。
温客行は暫し考え込むも、どの美人の顔でそのような眼差しを見たのか思い出せず、言葉に詰まる。二人が沈黙する中、周子舒の耳は、自分とも温客行とも異なる、かすかな呼吸音を捉えた。
彼はひそかに笑みを浮かべる──やはり、この言葉に耐えきれなくなった者がいるようだ。
まずは河辺に立ち止まり、身を屈めて手を水で洗う。ついでに、奇襲を仕掛けようとした怪物さんの首を掴み上げ、仕上げに地面へ叩きつけてやる。
怪物は一声も上げずに首を折られて死に絶えた。
周子舒は水を掬い上げ、悠然と飲み始める。
温客行も元来は破天荒な無頼者だ。周子舒を一瞥すると、爪先で怪物の死骸を弾き、横へ蹴り飛ばした。
そして彼に倣って、喉を潤すために河の水を数口飲んだ。
その時、背後から鋭い風が彼らを襲う。温客行はまるで予期していたかのように、慌てる様子もなく一歩横に身を躱した。
一振りの鋼刀が、彼の衣の端を掠めて水中に落ちた。
「ドン」という音と共に、周子舒は大きく笑い出し、
手を立てながら見物人の態度を取る。
「ほら見たまえ、温兄。お前を狙っているのだと言ったろう?これほどまでに心血を注いで抹殺を目論まれるとは、お前もきっと善人とは言えないな」
洞窟の四方八方から鋼刀が放たれ、それらは周子舒を躱し、温客行だけを狙って飛来する。
まるで刀剣の雨を織り成すかのようだ──
しかし温客行は狼狽える様子もない。彼の軽功は周子舒の想像をはるかに超える高みにあった。
ただし、その心の中では激しく彼を罵っていた──この周という男は、一言一句報復せずにはいられないのか。
度量の狭さここに極まれり。善人どころか、人の道から外れているとさえ言える。
温客行は手を上げて一振りの鋼刀を弾き飛ばすと、その刀刃は周子舒の裾を掠めて地面に突き刺さった。
「見殺しとは、周美人よ。
これがお前の言う善行というものか?」
*「奇門遁甲」は中国古来の術法で、陰陽五行を用いて空間や時間を操る秘術を指す。
*「豚を食べたことはなかったが、豚が走り回る様子は目にしてきた」直接経験はなくても間接的に見たり聞いたりしたことがある、まったく無知というわけでもない、を意味する言い回し。日本語で言うと、"見たことはないけど聞いたことはある"に近い。
*放下屠刀,立地成佛
凶器を捨てれば、その場で仏になれる。悪人も悔い改めればすぐに善人になれるという仏教の教え