獣ゆく細道への形而上的あこがれ
ふたりからの日記(もはや月記?)を待つあいだ、倫敦は景色が変わりました。白くなったよ。朝と晩の気温は5度まで下がり、白藍が占める空のもと、日向と日陰の境が曖昧になった。「日向を歩けばブリティッシュ」「日陰を歩けばスパニッシュ」ーーー、窓を眺めてそんな区別をつけることももう難しくなりました。
大事な人は日本へと戻っていき、気づけばわたしはいちにちを太陽よりも先に始めるようになりました。
6.00am(気づけばコロンの代わりにピリオドを使うようになったのも倫敦に来てからだ)。おぼろげな視界でかろうじて高天井を見あげ、'Hey Google, good morning' と声をかける。暗がりの白壁をぼんやり照らしながら、彼女は 'Good morning Midori.(中略。結構色々しゃべってくれる)Here's the latest news.' と言ってBBCからNHKに至るそれらを流してくれる。でも、寝る前の音量が小さいせいでニュースが流れるまえにわたしは必ず 'Hey Google. Volume 30%.' と言わなきゃならない。
夢と夢でない区別がつかない凪の時間は、ピントの合わない視界と聞こえる世界からのニュースだけが現実。〈その日〉が始まるこの数十分こそが、形而上学的なことを考える最適な時間じゃないかと思ってる。
なんて戯言を考えて二度寝でもしていると、いつの間にか7.00amになる。起き上がって着替えて歯を磨いてストレッチをしてケトルのスイッチを入れてお湯を沸かしランチボックスに一通り詰めつつ朝食のポリッジを用意しグリーンスムージーに小さじ一杯のマカ・パウダーを溶かし込む。その間ものの15分。頭が起きるよりも前に、覚えた身体はもう勝手に動く。
ニュースの話題はサウジ総領事館での殺害事件かBRIXIT。そういえば、ある日の朝 'Masayoshi Son' を 'Masayoshi-san' と空耳していたことに気づいて思わず笑ってしまった。7.40am、切らなきゃと思いながら切らない理由を繕っては放っておいている前髪をうっとおしげにねじったならば、今日も鏡越しにメガネの柄にソッとのせる振りしてテキトーによける。そのころにはニュースも一通り終わり、'Hey Google, play some music on Spotify.' と伝えて、Crosby, Stills and Nashが流れるのをほんの数秒、深呼吸する。
そして適当に化粧をしたらばもう8.00am、出かける時間だ。
だいたいがオフィスワークの最近は、退社するころに天気に関わらず空は暗い。ほんのり赤らむ空が群青へと変わる数分、Oxford Circusへと向かうダブルデッカーを待ちながら、藍が黒になるのも時間の問題。
冬の訪れこそが群青日和だったことをわたしは倫敦で初めて知ったと思う。やうやう白くなりゆく朝晩の吐く息。UNDERGROUNDのプラットフォームへつづく地下道を歩くときなんかは、天井にかけてラウンドに敷き詰められたタイルの白亜が夏よりも何故かまぶしいことも、初めて知った。
記憶では灰色だったこの都市の冬を、いまは白亜に書き換えているところだと思う。
そんな冬の幕開けです。
「仕事のすんだ朝は、男なんていらないという感じだ」
若葉ちゃんの自転車はミニベロですか?それともゴツめのマウンテンバイク?本屋を街に溶かす、という言葉の響きが好きです。『役者は一日してならず』をさっそく1-clickでkindleへ入れました。飛行機の機内で読もうかなと思ってます。
わたしは読んだはずの物語も観たはずの物語もどうもディテールまで覚えていることが不得手だから、きっとこのゲームは超難問。
それでも台詞と言うものはいやに憶えているから、街に台詞を溶かすことならできるかも。見出しは昨今いちばん心打たれた言葉を引用しました。
「仕事のすんだ朝は、男なんていらないという感じだ」
“仕事のおわり”、というなにが終わりかわからない物事に対して、林芙美子が言っていた。あの(あの!)林芙美子が「男なんていらない」といわしめる程の快感がある「仕事」というのは、なんて凄まじいものだろう。
わたしは久しぶりにゾクゾクして、でもわかる気もしてうれしく恥ずかしかった。
言葉を街に溶かす他だとしたら、電車の前に座った人の人生を予想するゲームは小さいころから大好き。小学生のときに本が古めくまで読んだジェリー・スピネッリ著『スターガール』で知りました。
ともあれ自転車の話。
春になったらCA4RAのネイビー・キャスケットにプチ・バトーのボーダートップス、SHINZONEのブルージーンズの足元は「ソールが薄くて心配で」と小言をいいながらレペットのフラットシューズを履いてください。バケット片手で土曜日の昼下がりに桜舞い散る川沿いをサイクリングでもしてくれたら、わたしは片道15時間かけても倫敦から駆けつけたい。
「無けなしの命がひとつ どうせなら使い果たそうぜ」
先日『ボクらの時代』でプロデューサー・小説家(彼を小説家と呼ぶことはどうしても憚れる)の川村元気さんが「周りの人が誰一人恋愛してないんだよね」と言ったのに対して、俳優の佐藤健さんが「あー本当共感しかなかったもんなあ」と言っていました(映画『億男』のプロモーションで2人に加えて高橋一生さんもいらしていました)。
今は誰もが賢い時代だと思ってる。誤解なきよう言葉を補うならば、誰もが賢くなれてしまう時代。一見すべての情報は手の中のデバイスにあると思い、リーチできるできないの差はあれど、ある一定の情報にまでは到達できる(あるいは勝手に流れ込む)。
そして、そんな見解すら穿った意見としてみられない、コモディティ化した賢い時代。
そんななか今月リリースされた椎名林檎様と宮本浩次様の新曲『獣ゆく細道』に頭を鈍器で殴られたような快感がありました(これぞ快感という言葉が適切のように思う)。
無けなしの命がひとつ どうせなら使ひ果たさうぜ
器と魂という考えという前提に基づくと非常に東洋的だと感じたけれど、体裁よく整え「賢い」が量産された時代に投下するには至極なまでの猛々しさに、泣きそうになった。そして思ったことがひとつ。
皮相的な賢さを身につけることがいったい命を使い果たすことになるのだろうか、と。
平和が当たり前、情報(過多)社会となった2018年の日本においては、デフォルメのようにキーン(keen)な生き方が一般化されている。わたしたちは生きているだけである一定の賢さを付与され、いくらレールを外れるといったところで奈落の底に落とされることはまずない。「死ぬこと以外かすり傷」という文句が表すように、少なくてもテロリズムのことすら不安になる必要のない環境下において、天災を除いた「死」という概念は戦時下の平等とはほど遠い。危険に晒された異国の地での人命に、税金を費やすかが必死に議論されるだけだ。
そのことを自覚すればするほどに、「きちんと」過ぎたはずだと思った時間(とき)は所詮一定の「きちんと」に過ぎず、願ったはずのボーダーを超えることなく雲煙過眼にやりすごしてはいまいだろうかと不安が付きまとう。
なにを言いたいかというと、「きちんと」の積み重ねが「使い果た」すこととイコールで繋いでしまうのが、もしかしたら短絡的だったような気がして、またわたしは恥ずかしくなるのです。
遠回りをしたけれど最初の話。
ナレッジも経験もコモディティ化できない「恋」という得体を知れないハプニングだけが2018年時点のわたしに初めて生命活動を感じさせているのかもしれない。林芙美子を嫌いになれない理由も近いところに転がっている気がする。
思うより前に感じてる。
恋をしないほどに賢く生きる世界に生きる価値はあるかしら。あるいは、恋を超える程の生命活動の価値を感じる「何か」が現代において蔓延っている?
わたしはこの夏やりとりを重ねるなかで、ふたりの恋愛観がとても2018年的だなと感じました。体温が低いと感じたから。改めて、ふたりの〈恋愛観〉を聞きたい心持ちです。
霜月そして師走・2時間だけのバカンス
光陰矢の如しという言葉を発することがナンセンスなほど、過ぎる時間は加速度的に短くなっていく。それでも一年でもっとも「矢の如」き時期に日本へ帰れることは2018年のご褒美だと思ってる。
だから「気」の良い宴にしましょうね。誰を崇めることなく、#碧の東京ナイトに偏ることもなく、フラットでカラッと。
その場に居合わせることだけがどれだけの奇跡かは、みんなが集ったときに判るはず。
追伸)
サマータイムは今日で終了、明日からは東経135度の日本とは9時間差。
二〇一八年十月二十七日
ロンドン・サウスケンジントン
ヴィクトリア&アルバート・ミュージアム
メンバーズルームより
碧 拝
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