6月のある晴れた朝に100パーセントの男性に出会うことについて
■元記事:http://midoritokioka.com/2019/06/onseeingthe100perfectmanonebeautifuljunemorning/
とにかく科白は「昔々」で始まり、「悲しい話だと思いませんか」で終わる
その人は昔、何歳だかの誕生日に〈最高のプレゼント〉をくれた。
「くれた」という表現は些か誤解があるからバックスペースを3回押したあとで「受け取った」と打ち直すのが正しいのかもしれない。ただそのシチュエーションは重要でないから「受け取った」と追記するにとどめておこうと思う。
その晩の午前1時をまわったころ。Google Homeに 'Wake me up at 5 o'clock.' と伝えた甲斐なく4.50amに目が覚める。太陽はすでのぼり始めていて空は白い。ノッティングヒルの狭い窓から見上げる晴天といえなくても雨は降っていないだけでこの都市では上出来だ。
6.31am、意外に席が埋まっていたダブルデッカーに乗り上階から起きつつある街を眺める。City Mapperが指定したバスより1本早いから遅刻する危険はないけれど、気持ちは収まるところを知る由もない。
最初の一言を、最後の一言を、最初の話題を、そもそもの挨拶を。『Call me by your name』の「M.A.Y in the backyard」をBGMに慌ててバス停に降車。'世界のサカモト' までも急きたてた。
そののちで時間は経過する。前に経過したそれとは比べものにならないほど些細な量が通過していく。
「あの夏、マリーナ・ディ・ピサで観た夕陽がフィレンツェで観たドームの外壁に使われていた淡いピンクの石とまったく同じ色だったの。それを観た瞬間に『きっと、設計者はあの夕陽に憧れたに違いないんだわ』って確信して、咄嗟に凡てがピンッと繋がったの」
白ワインを片手にわたしが感嘆したあとにつづくト書きは '驚く' か '関心する' かのどちらかだった。それなのに「よくぞ、それを言ってくれた」と豪速球で返ってきた共感のボールに、科白の応酬は延々つづく。「人は自然を越えようとするから」。
ピンッとなにかが張り巡っていく。経過した時間は '短くも長い' '長くも短い' なんて枕詞に見向きもせずに圧縮されていった。
人間は自然界の一部に過ぎない。その「一部」を「全部」と錯覚する大流のなか。「一部」を「一部」だという至極あたりまえの星で、幾つも線が繋がっていく。
ハルキストが酔狂する '物語' で、時が経過する手前の科白はこうだ。
「ねえ、もう一度だけ試してみよう。もし僕たち二人が本当に100パーセントの恋人だったとしたら、いつか必ずどこかでまためぐり会えるに違いない。そしてこの次にめぐり会った時に、やはりお互いが100パーセントだったなら、そこですぐに結婚しよう。いいかい?」
残念だが、ここで「いいわ」と答えることに、ロマンチックという理由は存在しない。
現象に確証の伴わないものにする約束のなかにもまた、そもそも確証はないのだ。
悲しい話だと思いませんか。
「さいきん」について
オリジナルのプロットに、令和時代の現代人は新海誠監督を想起させるだろうか。辛うじてハルキストが勝ることを願うが軍配はあやしい。同じプロットでもイメージが更新されること、時間がもたらすことの1つ。
時間がもたらすもの。
たとえば。なにをもって「さいきん」と言おうか迷ってしまう。
月並みなところで言えば「先月ふたりに会ってから」という回答。残念ながらそれはブッブーと×がつく。
なぜなら(これはあくまでわたしにとってでしかない。現に、御主にとってのみだと言われたところで論破する気も&できる気もしない)「さいきん」と言う言葉が〔時間〕のものだけではなくなった。時差の移動を伴うと「さいきん」という言葉のなかに〔場所〕が住み始める。
たとえば。トーキョーで語られる「さいきん」とロンドンで語るそれはすこし違う。
「さいきん」という演目においては 'Tokyoite' と 'Londoner' がWキャスティングされていて、その日の観客にあわせてどちらかが科白を吐いている。彼らは容姿も態度も瓜二つで、衣装を共有してたりするもんだから観客はそれがどちらかを判別するのはきわめて難しいのだ。
そのうちに考えるのもばかばかしくなり、彼らは観たもの=それ凡てと思うことにしたりし始める。「一部」を「全部」と思ってしまう。
前置きが長くなったが「さいきん」の見出しはこう。
・オンラインに晒すことが減る、そして「活動的」になる
・四半期に一度(以上)手紙を書く習慣を継続中
・春、ロマンチックなエリアに越す
・Google pixel 3で撮りまくる習慣を身につける
・SONYヘッドフォン、ノイズキャンセリング中にノイズが出る(L)
・太った気がして毎朝1時間歩く
ほらね、今日がどちらのキャストかなんて考えるのもばかばかしくなるでしょう?
それにしても、なにかが大きく動く気がしてるんです。それこそ地殻から音をたてて蠢くような、そういう動き。わかることは “ようやく” という感情と “つながってきた” という感覚だけ。
そう、“ようやく つながってきた” みたいなんです。
そんなことを言ったら「そういうのってわかる人にはわかるし、そうじゃない人はそうじゃないだけだからね」、あるいは笑いながら「なにいってるの?」と言う?どっちでもわたしは驚いたりしないけれど。「なにが?」と聞いてくれたら嬉しいな。(「西での2泊3日と26-27の思惟」より)
最初の見出しについて、8ヶ月ぶりに更新するのだからと、当時の個人ブログを読み返す。
真っ先に想ったこと。「今なら公開していない」(笑)
当時だって曖昧模糊に書いていた。多くの事実にヴェールを掛けたし、多くの気持ちを抑え殺した。それなのに。それだというのに掛けたと思っていたクロスはオーガンジー(それこそ100パーセントの透過率)殺したと思った気持ちは行間縫って読み手をめがけて迫り狂う。
もしかしたら。いまなら「ウサギと猿」の御伽草子を作文して8分くらいの創作落語を匿名のポッドキャストで公開してもいいかもしれない。そして公開ボタンを押そうか直前でふと我に返るのだ。
だれかの知らない気持ち、世の中はいつだって '物語' のなかで蠢く。たとえばこのポストのように。
追伸)
この「さいきん」の変化について締めるのならば、総じて好意的に思っているということです。なぜって?日常的なガス抜きを晒さなくなった後の人間の変化を、ふたりはきっと知ってると思いますよ。
http://midoritokioka.com/2019/06/onseeingthe100perfectmanonebeautifuljunemorning/
二〇一九年六月十六日
ロンドン・メリルボーン
カフェ「オレ&スティーン」ベースメント席にて
碧 拝
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