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Perfect Days / Wim Wendersを観て

世捨て人?ソローとの対比
ソローのWaldenにも通じる、主人公の生活を描いた作品。
ソローは信念や哲学をもって自然に身を投じるような生き方(二年間)をした人だが、本作品の主人公は、もっとちょっと普通の人。
過去は明かされないが、それなりの生活を営んだり、社会的地位を持っていたと想像できるエレメントがそこかしこに散りばめられている。
つまり、自ら選択した現在の生活、自分が愛情を感じるものだけに絞った生活を送っている。

仕事、音楽、読書、写真、植物、鉢植え、居酒屋、バー、銭湯・・・

自分が好きなものだけに囲まれた生活。
無口で穏やかな人物だけど、そんなお気に入りの世界のバランスが少し乱れると、普通に不快感も示す。

夢(具体と抽象の対比)
波のように繰り返し描かれる夢。
過去の辛い出来事が描かれている、なんていうレビューもみかけたけど、果たしてそうだろうか。
もちろんそういう想像もありだ。
一日一日の経験を、抽象化された形で感じ取った「感慨」を記憶のなかで繰り返しているような、もっと自然で生理的な現象だと思う。
そこで繰り返された感慨だけが記憶に残る。
毎日のルーティーンを繰り返しているようでいながら、一日として同じ日はない、そういうのを浮き上がらせてる描写だと思う。

日常では会話や出会い、気づいていなかった事に対する新たな気づき、等を具体的に経験する。

夢の中では、嬉しくなったり、寂しくなったり、戸惑ったり、といった形で影響される自分が感じ取ったものが抽象的に夢に現れる、

そんな対比表現じゃないだろうか。
そこにはさまざまな感情がうごめいている。

具体は、ドキュメンタリータッチに描き、
抽象は、より映画らしいファンタジックな表現、

と、描き分けているように思う。

デビッドリンチのように描かれる夢のシーンは不気味なようでいて、映画のファンタジックなワクワク感も感じさせる。
ドキュメントに突如割って入るファンタジーは映画的に魅力的だ。

映画的にはこの繰り返される夢をリズムとして機能させている。
だんだん間隔が短くもなっていくようにも思えて、それもまた映画のエンディングに向けて仕掛けられたものかな、と思う。
この夢の反復がなければこの映画は締まりのないものになっていただろう。

過去
過去は描かれておらず、それを想起させるようなエレメントだけがちりばめられている。
なので、作者としてのWim Wenders がどうイメージしていようと、本物の過去は視聴者に委ねられている。

洋盤のカセットテープ:
これは彼がビジネスマンとして世界中を飛び回ってた時に買い集めたものかな、とか想像させられる。かさばるので出張したときにレコードは買わない。買うならカセットテープかCDだろう。
日本で普通に生活していたとすれば、洋盤を買うならレコードかCDだろうし、カセットを買うなら邦盤のほうが手軽に買えただろう。それこそ駅前のレコード屋で買えたのは邦盤だ。

姪のニコ:
Velvet Undergroundのニコからきてる名前だろう。(スペルは違う)ルーリードやヴェルヴェッツを愛聴している兄だから、今は別世界に住んでるような妹も若いころはそういう嗜好をもった人だったのかな、とか。

父親との不仲:
資産家の父親の敷いたレールに反発し、どこかで袂を分かったのかもしれない、なんて勝手に想像できる。

涙:
妹が立ち去る際の主人公の涙の理由も明かされていない。ここの涙が意味するところって、普通の映画なら結構大事なシーンだと思うのだが、ああ、ここも視聴者に委ねるんだ、と思った。

読書と音楽:
読んでいる本や、聴いている音楽から、文学青年だったのだろうと想像できる。いわゆるヒット曲からではなく、ある程度尖った選曲だ。

影踏:
二人の影が重なると濃くなるか?

「影が濃くならないなんて馬鹿な話はないでしょう」と力説する主人公。

「随分こだわりますね」と呆れる三浦友和。

単にがんに侵された男に対するシンパシーだけではなく、これもまた主人公の過去をうっすらと形作るエレメントだろう。

ひとりの人間が存在している意味。
存在しているのだから二人分重なれば存在の質量として倍にならなきゃおかしいでしょう、的な。

もともと自分がいた世界、父親や妹がいる世界と袂を分かち、
自分で選択した世界=自分の存在意義に関わるからこそ、こだわるのだろう。

主人公のキャラクター像
前述の通り単なる「穏やかな人」ではなく、なんでも許容できるような超人でもない。

  • 迷子の少年の母親

  • 柄本時生が演じる軽薄で他責志向の若者

  • 舌打ちする女子高生

といった場面では主人公の批判的な視線も描かれている。
生活のリズム、彼を取り巻く世界のバランスが崩れるときには普通の人と同様に、呆れたり、時には苛立ち、不快感も示す。

一方、

  • 柄本時生と障碍者と思われる少年の会話

  • 姪のニコ

  • トイレから飛び出てくる少年達

  • 手を振る迷子の少年

  • 石川さゆり演じるママやお店の人たち

  • ママの元夫(三浦友和)

  • カセットテープを返しにくる茶髪の女の子

  • 浅草の居酒屋の亭主と客

  • 〇✖の相手

  • ベンチに座るOL

  • 掃除の応援に入った女性

に対する目線は穏やかだ。

唯一やりすぎかな、と感じたのは迷子の少年の母親だろうか。
トイレ掃除のおじさんと繋いだ手をウェットティッシュで拭く、お礼もしない、というのは作者が視聴者を誘導する意図が感じられる描写で、若干の品のなさを感じた。
本当は、そんな誘導は排したかったのではなかったか?
そういう意味では柄本時生演じる若者の身勝手さも、もう少しリアリティのある描写でもよかったのでは?

まぁ、無礼な人間は存在するし、中古レコード屋の店内にいる顧客の視線が、世の中の大半を占める良識ある一般大衆のように描かれていたと思うので、彼のトンデモキャラとバランスがとれて、ありなのかもしれない。ああいう母親もいるだろうし。実際。

いずれにしろ、主人公の肯定の目線と否定の目線がちゃんと描かれているのがよかった。

伏線とエレメント
「回収されるものが伏線」だとすると、この映画にはほぼ伏線は見当たらない。
あるのは散りばめられたエレメントで、回収されることはない。
Six Sense などに代表されるような「伏線と回収」は映画のひとつの醍醐味だ。
この映画はエレメントを散りばめながら、種明かしのようなことには背を向けている。

トリックを見せたいのではなくて、具体的だけど制限された描写から視聴者のイマジネーションに委ねることで、前述の「夢」のように感慨を浮き上がらせる。小説で言えば「行間」。
だから見終えた後でどんどん想像を膨らませずにいられない。
視聴者が創造を体験できるような。

映画表現
多くの場合、映画では情景や心象をセリフと映像、音で描写する。
セリフが多ければ多いほど説明的な映画になる。
本作の主人公は無口であることから、その心情の多くは表情と情景から描写される。
映画は小説と違って音楽を用いることができる。
ラストのニーナ・シモンの歌は、映画ならではの効果的な心象風景描写だと思った。
様々な感情を複雑に変化させてみせる役所広司の表情と、その心象を背中から押すような一節がとても痛快だった。

And I’m feeling good!

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