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素敵な女性はおひとりさま
第一章 わたしはおひとりさま
奈々美は28歳になったばかり。
新宿の夜景が一望できるカフェの窓際に座っていた。両手で包む温かいカフェラテ、そして心には昨夜の痛み。3年間付き合った彼との別れ話は、あまりにもあっけなかった。
「こんなに簡単に終わるものなんだ」と彼が去った後の静かな部屋で呟いたのを、今でも覚えている。奈々美は決して泣かなかった。代わりに、ひと晩中スマホで映画を見続けた。涙を流す暇も与えず、感情を押し込むために。
でも無理だった。どうしても涙が止まらなかった、失恋の涙か?悔し涙か?思いっきり泣いた。泣いたら、傷ついた心の奥底から、癒しの小さな芽が静かに芽吹き始めるような感触を得た。
今夜も彼女は一人。だが、それが悪いことだとは思わない。周りのテーブルでは、カップルたちが楽しそうに笑い合い、食事をシェアしている。それでも奈々美はどこか平然としていた。
ふと、テーブルの上にあるカフェラテの表面からゆらゆらと立ち上る香ばしい湯気を見つめていた。それはあたかも古びた暖炉から漂う、懐かしさを感じさせる煙のようだった。
「いつかこの湯気のようになくなり、冷めるのね…そうね…でも私は私でいい…」と思える瞬間が来るのを信じている。今はただ、失恋の痛みを静かに噛みしめながら、次の一歩を考える夜にしよう。
奈々美はそっと微笑む。「もしかして独りも悪くないかもね…」
奈々美は普通より少しだけ美人だった。大きすぎず小さすぎない目元は穏やかな印象を与え、口角がほんの少し上がるだけで周囲を和ませる、そんな笑顔の持ち主だ。周りから「可愛い」と言われることは多かったが、それが彼女にとって特別な自信にはならなかった。
むしろ、奈々美は自分の笑顔が少しだけ「武器」になることを知りつつも、それをあまり頼りたくないと思っていた。
「笑顔だけじゃなくて、ちゃんとした自分を持ちたい…」と、よく思う。それは花びらだけでなく、しっかりと根を張る木になりたいと願うのに似ている。
昨夜の失恋も、実はずっと心のどこかで覚悟していたものだった。彼の「いいところ」だけに目を向け続け、無理に笑顔を作ってきた日々。恋をしている自分にどこか酔っていたのかもしれない。でも、奈々美はそれを彼のせいにするのは嫌だった。風で飛ばされた帽子を、風そのものを責めるのではなく受け入れるかのように…。
カフェの窓越しに見える新宿の街は、どこか冷たくも華やかだ。人々が行き交う中で、奈々美は自分のこれからの人生をぼんやりと考え始めていた。
「どうせ一人なら、もっと自由に生きてみるのもいいのかも」
そう思ったとき、縛られることのない未来への期待を胸の奥に少しだけ軽さが生まれたような思いが目覚めた。
彼女はカフェラテを飲み干し、バッグから手帳を取り出すと、これまでの自分にはなかった新しい目標を書き留める。
「いつかひとり旅をする。雪の積もる温泉がいいな…彼…?彼はまだいいや…」
小さな目標だったが、それは確かな未来への一歩だった。
小さな冒険
今夜の奈々美は思い切って、一人で居酒屋のカウンター席に腰を下ろした。入り口近くの暖簾からは冷たい小雪が舞い込み、店内の温かい灯りと混ざり合ってほのかなぬくもりを感じさせる。
「あぁ…暖ったかい…」
その日は凍えるような寒さだったが、奈々美は厚手のコートに包まれた自分がどこか特別に誰かに守られているように感じていた。
「熱燗ください」と短く告げると、居酒屋の店主が笑顔で「ありがとうございます。いい夜ですね」店主の笑顔には、静かに流れる心地よい夜の空気が映し出されていた。
奈々美は小さく頷きながら、カウンターに並べられたお通しの小鉢を眺めた。湯気の立つ茶碗蒸し、もともと焼かれていてさっと炙られた銀鱈の切り身、小さな漬物の盛り合わせ、大好きな小茄子の芥子和えもある。
どれも想い出深く、一人で味わうには十分すぎる贅沢だった。
「こういうの、意外と悪くないかもね」と奈々美は独り言のように呟いた。店主が黙って熱燗の徳利を置いていき、小さな盃に酒を注ぐ。その瞬間、湯気と一緒に立ち上る香りが奈々美の心をそっと癒やしてくれるようだった。
彼と別れたあの日から、どこか「誰かのために…」と疑問を投げかけ、一々笑顔を作ることに疲れていた。だけど、この夜だけは違う。一人で過ごす時間がこんなにも心地よいものだとは、今まで知らなかった。 まるで長い間忘れていた柔らかな毛布に再び包まれるような安堵感だった。
盃を手に取り、軽く口をつけると、日本酒のやわらかい温かさが上顎の両脇に染み渡り、そして喉を伝い、冷えた身体にじんわり染み込んでいく。「誰にも邪魔されない自分の時間って、こういうものなのか」と心が静かに満たされていくのを感じた。
それはあたかも長旅の末にたどり着いた家の暖炉の前で、身体がじんわりと温まるような心持ちだった。
ふと、窓越しに見える小雪が、灯りに反射して踊る様子に目を奪われた。まるでこの一人の夜がわたしだけの特別なステージのようだった。
「あの人と別れてよかったのかもね…でも…」
誰に言うでもなく呟いたその言葉は、雪の中に溶けていったが、奈々美の心には少しだけ自信と戸惑いが宿った。
奈々美は、ふと盃を眺めながら「これじゃ追いつかないな」と心の中で笑った。せっかく一人で自由な夜を楽しむと決めたのだから、もっと気楽にいきたい。そう思い立ち、店主に声をかけた。
「フグのヒレ酒、湯呑みでお願いします」
「おぉ〜…あっ…はい、分かりました…」店主は眼を丸くして少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに「いいですね、楽しいことでもありました?」と微笑んだ。
しばらくして湯気の立つ大ぶりの湯呑が目の前に置かれる。その中には少しの焦げを纏い炙られたフグのヒレが真ん中に浮かび、香ばしい香りが奈々美の鼻先をくすぐった。
添えてあるマッチで、アルコールを飛ばすと何杯も飲めるが、敢えて邪道の道を選んだ。
湯呑を両手で包み込むように持ち上げ、一口含むと、熱い琥珀の液体が喉を通り抜け、ふわっと広がる独特の風味が彼女の舌を喜ばせた。ヒレの香ばしさと日本酒の深みが絶妙に調和していて、まるでこの瞬間だけが特別に設けられたような感覚を覚える。
「これ、すごくいい…超辛口で…」と思わず声が漏れる。奈々美はその湯呑を置くことも忘れ、静かにじっくりと味わった。 顔が紅んでいくのがわかった。みたも、耳たぶも適度に熱い。
隣の席から「一人で飲むなんて渋いですね」と話しかけてきた若いサラリーマン風の男性がいたが、奈々美は軽く微笑むだけで視線を戻した。「今夜は誰にも邪魔されたくない」と心の中で呟き、あえて会話を広げないでいた。
「愛想のない女」と思われたかも知れないな…。それで構わない、今夜は…。
フグのヒレ酒の温かさと、カウンターに差し込む明かりの柔らかさが、彼女の中に新たな自分を作り上げていく。「こうやって自分を大切にする時間を、もっと増やしてもいいかもしれないな…」
小雪が舞う寒い夜、湯呑の温かさに包まれながら、奈々美は自分の未来にほんの少しだけ期待を込めて、もう一口酒を楽しんだ。
偶然の出会いがやって来た
店を出た奈々美は、雪が止んだ街路をゆっくり歩き出した。頬に当たる冷たい風が心地よい。熱燗とヒレ酒で少しばかり酔いが回っていたせいか、足元は思わず千鳥足だったが、心は妙に軽やかだった。
「こんな夜も悪くないな…」と何度も呟きながら歩いていると、ふと熱いコーヒーが飲みたくなった。どこかでひと息つきたい気分だった。路地の傍に暖かな明かりが漏れるお洒落で小さなカフェが目に入った。
中に入ると、店内にはほんの数人の客がいるだけで、落ち着いた雰囲気が漂っていた。奈々美は外が窓越しに見えるカウンター席に座り、メニューを眺めながらレジ前で「ホットのショートをお願いします」と注文した。
マグカップに注がれそうになった「ごめんなさい…テイクアウトカップで…」愛想のいい女性スタッフが蓋を閉じてわたしてくれた。奈々美は、あのマグカップの分厚い陶器の口触りが嫌で、家ではステンレス、外ではテイクアウトカップを好んで注文している。
ぼんやりと外を眺めていた。表情には、どこか寂しさと安らぎが混じり合っていた。
「一人で来るんですね。さっきのお店でもお会いしましたよね?」
ふと横から声がした。その一言には、一人で過ごす相手に対する優しい共感が込められていた。
見ると、隣に座っていたのは少し年下に見える男性だった。短めの黒髪に柔らかな目元が印象的で、カジュアルな服装が彼の気取らない雰囲気を引き立てている。奈々美は驚いたが、「さっきのお店?」と思い返してみる。どうやら居酒屋でも近くに座っていたらしい。
「あ、そうだったんですか?気づきませんでした…」と軽く笑いながら答えると、彼も気負わない様子で微笑んだ。
それから二人は自然と会話を始めた。奈々美は、自分がふと一人の時間を楽しみたくて外に出たことや、酔いのせいか失恋のことをぼんやりと匂わせる話をした。一方、彼は歩夢と名乗り大学を卒業して間もない22歳、新人デザイナーで、仕事帰りにたまたま同じ居酒屋に立ち寄ったことを語った。
「なんだか、こういう偶然ってあるんですね」
彼がそう言ったとき、奈々美はふと心が温かくなるのを感じた。酔いのせいか、彼の言葉のせいか、わからなかったが、何か感じるものがあり不思議とこの瞬間が特別に思えた。
その夜、連絡先を交換までして別れた彼は、後に奈々美の人生を大きく変える「運命の人」となる。
だが、今の奈々美はまだそれを知らず、静かな期待とともにまた一人で歩き出した。雪が止んだ夜道には、次の季節の足音が聞こえるような気がした。
続く…
第二章は歩夢との再会からです
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