囁きが壁から滲みる呪いの部屋
アユミは、初めての一人暮らしを始めるために、東京の街を歩き回っていた。仕事帰りのスーツ姿や、カフェでくつろぐ人々が行き交う街で、彼女の胸は期待と不安でいっぱいだった。インターネットでたくさん調べたけれど、実際に足を運んで見るのが一番だと友達からアドバイスを受けたのだ。
今日は、不動産屋の案内でいくつかのマンションを見る予定だ。最初に訪れたのは、吉祥寺の駅から歩いて10分の場所にある築浅のマンション。オートロック付きで、なんとなく「私の新しい生活、ここから始まるかも!」と感じさせる雰囲気がある。内見すると、部屋は日当たりが良く、白を基調としたシンプルなデザイン。「ここなら、朝に窓を開けて深呼吸するだけで良い一日が始まりそう」と思った。
次に案内されたのは、目黒の駅近くにあるちょっとレトロなマンション。エントランスにはどこか懐かしいタイルが使われていて、昭和の香りが漂う。内装はリノベーションされていてモダンだけれど、どこか温かい感じがする。バルコニーから見える並木道が気に入ったアユミは、この部屋での生活を想像しながら、小さく微笑んだ。
最後に訪れたのは、池袋の中心地にある高層マンション。エレベーターで20階まで上がると、窓からの景色が広がった。「うわあ…」と思わず声が出る。ネオンで輝く夜景と静かな部屋の対比が、都会での生活を感じさせる。「ここに住むと、仕事終わりにあの景色を毎日眺められるのかな?」と想像する。
帰り道、アユミはスマホを取り出し、不動産屋さんに一言メッセージを送った。「2件目の目黒のマンションに決めたいです」。温かみのある空間と、並木道が見える景色が、彼女の心をつかんだのだ。新しい生活は、もうすぐ始まる。
アユミが目黒のレトロなマンションでの生活を始めてから、最初の数週間は快適だった。並木道を眺めながらコーヒーを飲む朝、心地よい風が吹き抜ける夜——理想的な一人暮らしだった。
しかし、ある夜、彼女がベッドで本を読んでいると、突然、リビングからかすかな足音のような音が聞こえた。「気のせいだよね…」そう自分に言い聞かせて眠りについたが、その翌日も同じ時間に同じ音が聞こえた。リビングを確認しても、何も異常はない。
さらに奇妙なことが起こり始めたのは、引っ越して1ヶ月が経った頃だった。アユミが仕事から帰宅すると、閉めていたはずのクローゼットの扉が少しだけ開いていることに気づいた。「きっと朝のバタバタでちゃんと閉めなかったんだ」そう思おうとしたが、次の日もまた扉がわずかに開いていた。しかも、いつも同じ角度で。
その週末、友達を招いて軽い飲み会を開いた時のこと。友人の一人が、リビングの壁をじっと見つめながら言った。「ねえ、この壁、ちょっと変じゃない?」アユミがその指を指された方向を見ると、壁紙の一部がわずかに浮いているように見えた。気になって触ってみると、そこだけ異様に冷たかった。
さらに不気味だったのは、深夜に聞こえるかすかな囁き声だ。まるで隣の部屋から聞こえてくるような声だが、このマンションは両隣が空室のはず。アユミは何度も耳を澄ませたが、その声が何を言っているのかまでは聞き取れなかった。
ある晩、彼女は思い切ってスマホの録音アプリを起動し、寝室に置いたまま眠りについた。翌朝、録音を再生すると、静かな部屋の中で確かに囁くような声が記録されていた。それは人間の声というより、どこか不気味な響きを持つ音だった。「ここにいる…」「早く…」といった言葉のように聞こえる部分もあったが、はっきりとはわからなかった。
アユミはその音を聞き終わった後、体が固まったまま動けなくなった。そして、壁の冷たい部分を再び触れてみると、そこから微かに湿った感触が広がっていた。恐る恐る壁を叩いてみると、空洞のような音が返ってきた。
このマンションには、アユミがまだ知らない秘密が隠されているようだった。
アユミは、奇妙な出来事が続く中で日常を取り戻そうと必死だった。会社では同僚とランチに出かけ、友達とはカフェで会話を楽しみ、家に帰ると好きな映画を観たりして気を紛らわせていた。でも夜になると、壁の冷たい感触や耳元に囁くような音が脳裏に蘇る。
ある夜、アユミはソファに座りながら、なんとなくSNSを眺めていた。何か気晴らしになる記事でも探そうと画面をスクロールしていると、「目黒 心霊 マンション」という関連タグがタイムラインに流れてきた。心がザワついたが、気になってタップすると、数年前に起きた事件の話がまとめられていた。
「このマンションの◯◯号室、5年前に自殺があったって知ってる?」という書き込みとともに、見覚えのあるマンションの写真が投稿されている。その部屋番号を見た瞬間、アユミの心臓が止まりそうになった。自分が今住んでいる部屋だったのだ。
さらに読み進めると、その部屋で命を絶ったのは、30代の男性で、彼は生前「何かに取り憑かれている」と周囲に話していたという。そのマンションに引っ越した直後から様子がおかしくなり、幻聴に悩まされるようになったらしい。最後には、「もう限界だ」というメモを残してこの世を去ったと書かれていた。
「嘘でしょ…」アユミは手が震え、スマホをテーブルに置いた。思わず周囲を見回したが、部屋は静まり返っている。それでも、背中をなぞるような寒気を感じた。
その夜、眠れぬままアユミはネットでさらに調べた。過去のニュース記事や掲示板の書き込みを漁ると、この部屋での出来事はそれだけでは終わっていなかった。その後に住んだ人も長く住み続けることはなく、短期間で退去しているという。「原因不明の不調」や「誰かに見られている感覚」を訴えていた住人の体験談がいくつも見つかった。
次の日、アユミは不動産屋に電話をかけた。震える声で事情を説明したが、電話の向こうの担当者は冷たく、「契約時に説明はしていると思いますが…」と言うばかりだった。しかしアユミはそんな説明を受けた記憶はなかった。
その夜も壁から冷たい感触が伝わり、耳元でははっきりと聞こえる囁き声がこう告げた。
「ここは…私の場所だ…」
アユミは布団を頭からかぶり、朝が来るのをひたすら祈るしかなかった。
アユミはついに決断した。このままでは日常生活が壊れてしまう。あの部屋に住み続けるのは無理だと悟った彼女は、仕事の昼休みに不動産屋を訪れ、解約の手続きをした。不動産屋の担当者は少し嫌な顔をしたが、「これ以上は無理です」と必死に訴えるアユミを見て、仕方なく応じた。
新しい住まいは、都内でも落ち着いた住宅街にある明るいマンションだった。内見の時に感じた温かい日差しと静けさが、アユミの不安を少しだけ和らげてくれた。引っ越し当日、友達数人が手伝いに来てくれ、賑やかに荷物を運び込むうちに、あの部屋での恐怖が少しずつ遠ざかっていくように思えた。
新しい生活は順調にスタートした。気味の悪い現象はなくなり、夜も静かに眠れる日々が続いた。しかし、すべてが完全に終わったわけではなかった。
ある夜、仕事で遅くなり、疲れてソファに横になっていたとき、ふと耳を澄ませると、かすかに聞こえる気がしたのだ。あの囁き声が。「ここは…私の場所だ…」と耳元で囁く低い声。慌てて部屋中を確認したが、当然、何もおかしいところはない。
別の日、リビングの壁を何気なく触った瞬間、ゾッとするような冷たさが指先に伝わった。だが、その冷たさは一瞬で消えた。気のせいかもしれないと自分に言い聞かせたが、心の奥ではわかっていた。完全に断ち切れていない、と。
それからも時折、アユミは夢の中で前の部屋を見た。壁の冷たい感触や、ぼんやりと立つ人影が夢に現れ、彼女をじっと見つめてくる。目が覚めると額に汗をかき、鼓動が早まっているのを感じることが多くなった。
新しい家での生活は静かで安全だが、あの部屋の記憶は完全に消え去ることはなかった。それはまるで、あの場所がアユミの心の片隅に爪を立てているかのようだった。彼女は心の中で静かに誓った。「二度と、あのマンションの近くには行かない」と。
しかし、夜の静けさの中でふと立ち止まると、アユミはどこからともなく冷たい視線を感じることがあった。新しい家にまで、その気配がついてきているのか、それともただの思い込みなのか。答えは誰にもわからない。