社会見学雑文日記 寄り道は悪い?
最近見たnoteの記事で、「子どもの送り迎えの時間を自分の時間だと言えないのは、子どもは寂しく思っちゃうよ」というのを拝読した。まぁ勿論前後からの文脈もあって、心に留まっているものの、「確かになぁ」と考えさせられるものだった。
自分の時間はどの時間をさすのか。
一人の時間?お酒を飲んでいる時間?子どもと戯れている時間?仕事している時間?
どれも自分の時間だ。
誰かに演じさせられているわけじゃない。
自分の時間を自分の人生を生きたいと思った。
話は変わって、今日は休みだったので、買い物に出かけた。いつもの通り、弾丸で。
とりあえず店に入って、いろいろ物色して、心を打たれたキャンプ用品を衝動買いしてしまった。
自分にも好きなものがあって、心が動くんだと、衝動買いを正当化しちゃったりして、、、これはこれでいいのだ。
そして、家路の途中、
「そうだ!今日買ってきた道具を使って、庭で遊んじゃおう。」
と。いい大人が何言ってんだよ。
「むむ。それじゃあ、あの道具が足りないじゃないか。」
と気づく。もう、我が家も目の前。
時間のことを考えれば、また同じ店へ向かうのは、超絶効率が悪い。また15分もかけて戻るなんて正気の沙汰じゃない。
でも、私は戻って買ってやったさ。どうしても今日使ってみたかったんだもの。
そのせいもあって、昼ごはんが13時すぎになってしまった。まぁそんな休みも良いかと思えた。
ここで、自分の行動を鷹の目で観察してみる。
今このIT社会で、情報が簡単に手に入る世の中で、正義とされがちな考えがある。(勝手に私が思っているだけ)
それは、コスパが良いことが正義だということ。
ネットで調べて、最短で答えに辿り着く。
わざわざ国語辞典で言葉を調べるなんて、コスパが悪い。みたいな感じ。
YouTubeで、
「サムネイルの作り方はこうした方が良いですよ、調べるといろいろ出てきますよ」
→「どういうサムネイルが良いか考えるのが好きなんだ!何でもかんでも調べて、考えることを放棄したらあかん!」
というのを見た。これも「確かにな」と思った。
目的に応じて使い分ければ良いわけだが、何でも最短で答えに辿り着くのが、正義になるのは少し違うなと思う。
1番言いたいのは、寄り道が生まれにくいことだ。
サムネイルを考えている過程で、伝えたいことが実は違っていたことに気づき動画編集に活かせたり、流行りの傾向を考えてみたりと、過程の中で枝葉があるものだ。
その枝葉に心が動くこともあったりする。
だから、寄り道がディスられがちであるけど、実は人生の潤いを与えてくれるものだとも言えるのではないかなと思う。
つまり、何が言いたいかというと、買い物で回り道をしていた自分は心が相当潤っているよということでした、、、