最後のように
空がずっと続くみたいに、今この瞬間がずっと続くといいのにな
少し冷静になった頭でそう考えてみる。
ありがたいことに、2日間連続で入らせてもらったFollow大阪公演。夢みたいなのに全て現実なのが未だに信じられない。今、この胸の昂りに合わせてこの2日間を忘れないように、感じるままの感情をただ私の思うまま私の言葉で記録する。
繋がる糸
慣れない地へ大好きな人たちに会いに足を運ぶ朝。
学校へ行く時、バイトへ向かう道、たまに散歩をする時、心がざわつく日、どんな時でもいつも私の傍にいてくれた大好きな人達の歌を聴いて、その主達の元へ自分の足で向かっていることに既にドキドキした。
5月17日に行われたFANMEATING LOVE 以来に会うSEVENTEEN。そして今回初めて会う大好きなCARAT達のことを考えながら、何日も前から会ったら何を話そうか何を伝えようかどんな顔で合えばいいのだろうかと何回も何回も思考を巡らせた。
実を言うとかなり緊張していたと思う。手に汗をかくほど、誰かと会うことが怖くもあり同時に緊張という名の糸を引いて、少しばかりの胸の高鳴りがあった。
少し前に先立って行われた9月の東京ドームのことが思い出される。行けない悔しさなのか好きな人達に会えない悔しさなのかそれともその両方なのか、羨ましいと感じると同時に、はたして自分は誰かに会ってもいいような人なのかとふと疑問に思ったのだ。
ここでいう"誰かに会ってもいいような人なのか"という感情は、=卑下する ことにあたる。人に会うことが怖いと思うことはおかしいことだろうか、"怖い"を表さないように取り繕うことは悪いことだろうか、ただその全てが怖さに直結したわけではなかったし、会いたかった気持ちがあったのは決して嘘ではなかった。会いたい会いたいと何度も思っていたのにも関わらず会うことが怖かったのは、私の中にある一つの弱さなのだろう。
会いたいのに会いたくないという、若干(かなり)矛盾した感情を抱えつつも、私と会ってくれた人達にありがとうと言いたい。「CARATの私」だったからこそ会えた人達、SEVENTEENが繋げてくれたたくさんの見えなかった糸を、こうして手に触れるかのようにして実感できたことが信じられないほどに嬉しかったりしたのは言うまでもない。
はじまり
未だに持ちなれないCARAT棒を右手に握りしめて、暗くなる場内に合わせてひとつの光がステージに降りた。段々上がる音のボリューム、隣にいる人の声すら聞こえないほどの自分の心音、溢れ出る熱気、ドクンとひとつ波打てば、もうそこは世界から離された別の世界のように感じた。
歓声の中、痛いほどの心臓の音と共に立ち上がった。
生で見たSuperの迫力は、思っていたよりも鮮烈に鮮やかにそして感覚的に記憶に残っている。白幕の中から出てくる、幾度となく液晶越しで見続けていた人達が出てきた瞬間の感情の昂りと、言い表せないほどの感動の連鎖は声にならないまま消えていった。聞き慣れないようなどこか聞き慣れたようなホシくんの咆哮に背筋が痺れた。
一つの成長
続く曲の中で、VOCALTEAMのユニット曲「Pinwheel」を聴いて一人目頭が熱くなった。
私が大好きな曲。寂しいような悲しいような、それなのにどこか温かさを感じさせるような、そんな曲。
「何度季節が巡っても側にいるよ」
これは9日、土曜日のスローガンの言葉。
新しい季節の訪れをまたあなたと過ごしたい。
暖かな日差しの降り注ぐ日も、雨風の強い乾いた日にも、朱色の絨毯のかかる日も、白の空気に染まる寒い日でも、どんな時でも何度も同じ季節を巡り続けて、それでも最後はいつもあなた達の側にいたい。
心が浄化されるような、リセットボタンを押させてくれるようなそんな時間だった。
そしてもう一つ、私が大切にしている曲、Kidult。
私にとってこの曲はSEVENTEENを知ってから知った曲、つまり私がSEVENTEENを好きになったときには既にリリースされていた曲である。
そして、私が大好きな曲。
人には辛いと感じる時期が誰でもあって、その辛さが何なのか、何に苦しんでいるのか、どうしてこんなにも辛くなるのか分からない時がある。もちろん私にもそういう時期があったわけだが、Kidultはそんな時期に出会った曲だった。異国の、分からない言語に翻訳を重ねて一人泣いたあの日の私を思い出すと、後にも先にも "歌" でこれほど心を揺さぶられたのは初めてだった。"分からない"言葉は、何故だかスっと胸に落ちてきて、私に "大切" を教えてくれた大事な曲。きっとこれを聴いたら泣いてしまうだろうと思っていた曲のうちの一つでもあったのだが、実際聴いて涙が出ることはなかった。
ここを歌うホシくんの、どこか儚げであり、何かを必死で伝えようとしてくれるようなそんな表情に、苦しくなるほど胸を打たれこと、きっとずっと忘れない。
ひとつひとつの音にリズムに、その真髄にある祈りに近いような想いに、彼の伝えようとする意思に、鷲掴みにされたような感覚になった。
もし、あの時の私がこの耳で彼らの歌を聴いて、この目で彼らの伝える力を目の当たりにしたらどうなっていただろか。大丈夫だと、あなたは大切なんだと真っ直ぐ伝えられることがこんなにも暖かくて嬉しいだなんて知らなかった。特別でなくともそう錯覚させてくれるような、私は私でいて大丈夫だと思わせてくれるような、そんな気持ちになれることは私に一番欠けている部分だろうことを、自分で痛いほど分かっているからこそ、より響くものがあった。
自分のことを低く見て、周りより強い自己嫌悪を持つ私は、この曲に、歌詞に、言葉に、活力をもらえた。
下ばかり向く私に、前を向けるきっかけをくれてありがとう。今でもまだ、あの時の闇をぶり返すことは多いけれど、100になることがなかったとしても、ゼロしかなかった私の心に、たった1パーセントでも光を与えてくれてありがとう。今の私があるのは、きっとあの時の成長のおかげで、その成長の過程にいてくれたあなた達とその曲のおかげでもあるから。
天の川の星のように
この2日間を通して何よりも記憶に残っていたのは、トロッコが回ってくる時だった。ありがたいことに、9日はトロッコがとても近くてかなり近距離でホシくんを見れた。同じ空間、同じ場所、同じ目線で確かに見たのだ。ホシくんの乗ったトロッコがこちらに近づくにつれて、これでもかというほどに鼓動が早くなって、身体中に熱が溜まる感覚がした。バクバクと早まる心臓の音を感じながら、こっちを見てほしいと思ったけれど、彼が見ているのは奥にも続く人の海で、数多くの綺麗な光だった。
吸い込まれそうな程に綺麗な瞳で、多くの光を眺めているホシくん。大好きな人が目の前にいるのに、私は何もできなかった。何もさせてもらえなかった。彼からのファンサを求める声が聞こえる中で、ただ静かにその様子を眺めて、ファンサ的なものを貰ったわけでも、ましてや目が合ったわけでもないのに、心臓はずっとうるさくて手も足も震えて、その場にしゃがみこんでしまいそうな程にいっぱいっぱいだった。私が一方的に見ていただけ、たったそれだけなのに、だ。悔しいとかそういう気持ちがゼロだったわけではないが、私には、ホシくんがマイクを持って歌う姿をあの距離で見れたことが何よりも特別に思えた。ただそれだけで、この日までのたくさんの苦労や葛藤が吹き飛ぶほどであった。
そして何より記憶に残ったのは10日のこと。前日よりかなり距離はあったものの、上から見るSEVENTEENはとても綺麗だった。SEVENTEENはいつもあのステージからこんな綺麗な光を眺めているのかと思うと胸がいっぱいになった。
SaraSara、ホシくんのパートである。
DREAMの歌詞に続き、彼を象徴する一つの「星」という単語がのせられたこのパートを、一体どんな想いで歌っていたのだろうか、少し気になった。
会場全体を見渡す君の横顔は、忘れられないほどに綺麗で、その光を一体に受けて踊り狂う君の身体と、その光に近づきにまわる君のことが、この世の何よりも大切で、大切で、仕方なかった。比較対象なんてなくて、でもあの瞬間の君は本当に綺麗だった。
この時間を全身に刻む込むかのように静かに見据えるホシくんのことが、大好きだと思った。
何度でも
ホシくんにとって、ステージの上に立つということは生きることと同義で、彼の中にあるステージへの情熱や欲は全てを全力でやることと同義なんだと感じた。
この、「全ての瞬間が最後だと思って」という言葉は、割と昔から言ってくれているような気がするのだが、ホシくんのいつも初心がそこにあるような誠実さがとても好きだと感じた。
大事なことを、一貫して通せるところがかっこよくて、CARATのことを大切そうに見つめる瞳はとても綺麗で、燃え尽きそうな程に上がるボルテージに、全体を巻き込んでしまうほどのエネルギーをもつ君は、たった一声の咆哮で何万といる人の心を灯してしまう。
私はホシくんのそういうところが好き。
好きなところを上げるとキリがないくらい、ずっとずっとホシくんのことが好きで仕方ない。
お決まりの、というのは失礼かもしれないが、
「最高で最後のアイドルになります」と言ってくれるホシくんの、決意に近いようなその信念が、私はとても好き。好きというのは違うかな、いや違わないな。ホシくんの一挙一動、どんな言葉でも全部大切で、全部大好きなのだから。
私の最初が君でなくとも、私の最後は全てホシくんがいい。 他の誰でもなく、ただ君がいい。
大好きだもん。
目が眩むほど眩しくて、かっこよくて、目の前のことに最善をつくせる君が、とてつもなくかっこいいんだから、仕方の無いことだ。
最後
まだ不完全な私だけれど、こんな私にも光を届けてくれてありがとうね。CARATの括りにあること、私をCARATとして過ごさせてくれること、全部ありがとう
最後に残す言葉は、やっぱりいつも「ありがとう」になってしまうのが少し申し訳なくもあるけれど、心から思ってる。きっとこれも、祈りに近いような想いなんだ。
私の10代を、17歳を、SEVENTEENで彩らせてくれてありがとう。単色しかないような心を、多彩な色調で大切なものへと変えてくれて、ありがとう。