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「なんか」を分解する話

先週ひとりでビジネスホテルに一泊した。

リフレッシュ&仕事のために1〜2ヶ月に1回くらいそういう日をもらっていて、先週がそのタイミングだった。

去年はいろんなホテルを点々としていたけれど、値段や設備的にちょうどいいホテルを見つけてからは毎月そこに泊まっている。

自由な夜ご飯。さて何を食べようかと思った時、「おにぎりがいいな」と思った。インスタントの味噌汁を持ってきたのでそれと一緒に食べるのがいい。2個は食べたい。

荷物を置いてから、おにぎりを探すためにホテルを出た。

街はずいぶんにぎやかで、隙間を埋めるように飲食店が並んでいた。牛丼、天丼、回転寿司、居酒屋、焼肉、カフェ、洋菓子、和菓子、なんでもあるな。

でも、あちこち歩きまわっても、食べたいおにぎりは見つからない。駅ビルの地下のお惣菜売り場からちょっと高級なスーパーまでのぞいたけれど、どれもピンとこない。コンビニも3件のぞいた。

3件めのセブンイレブンに着く頃にはだいぶ疲れていたし、品揃えも豊富だったので「これだけ揃っているんだから、ここで決めよう」と自分に言い聞かせるようにおにぎり売り場の前に立った。

ツナマヨネーズ、おかか、梅といったおなじみのものから、いくら、カニなどの高級路線、ビビンバのおにぎりなどたまに食べたくなる心惹かれるものまで幅広く揃っている。

視界の端から端までおにぎりで埋めて、ひとつひとつ、心の中で読み上げる。鶏ごぼう、赤飯、わかめ、しゃけ。大好きなしゃけを手に取ろうとして、やっぱり引っ込める。ああもう、体がムズムズしてきて落ち着かない。

そう、おにぎりを探し出した頃からなんだかずっと体がムズムズしていた。一体なぜなのかわからなかったけれど、たくさんのおにぎりを前にしたら、ムズムズは急に言葉になった。

「なんかちがう」

なんかってなによ、と反射的に突っ込む私。わけわからん。これだけおにぎりがあるんだよ?

「でもなんかちがう」

ええ…。
気がつくと背後におにぎりを選びたそうな人の気配がしたので、慌てて雑誌コーナーまで撤退する。

私は観念するような気持ちで自分と話しはじめた。
わかるよ、わかる。あなた(私)の言ってることは。なんかちがうんだよね、実は私もずっとそう思ってる。

晩ご飯はおにぎりがいいなって、ホテルに着いた時から思ってた。
インスタントの味噌汁を持ってきたので、それと一緒に食べたら最高じゃんって。だから、おにぎりを探していることは正解。

でもどのおにぎりも正直まったくピンとこないんでしょ。うん、わかるよ。私もそうだもん。

でもさ、この辺のおにぎりはもう大体全部見たでしょ。

だから、この中から選ぶの。今日食べるおにぎりを選ぶことなんて、引っ越し先を決めるとか転職先を決めるとかに比べたらたいして重要じゃないでしょ。いいの今日はこれで。

「でも、なんかちがうんだよ」

なかなか引き下がらない(どこか切実にも聞こえる)自分の声を聞いて、思わず天井を見上げた。そして一旦店を出てみた。

おにぎりに特別なこだわりを持っているわけじゃない。
手作りオンリーとか添加物NGとか考えていない。そもそもコンビニのおにぎりは美味しいなって思っているし、今まで何回も食べてきた。

でも今日は、コンビニも含めてどのお店で見たおにぎりも「なんかちがう」。それはもうはっきりと、ごまかせないくらいに強くNOを感じる。

この「なんかちがう」の「なんか」ってなんだろう。私は何に対して「ちがう」って思っているんだろう。

いつの間にか辺りは暗くなっていて、そこらじゅうで赤や黄色に光る看板がまぶしかった。私は半分諦めてホテルに向かって歩き出した。すると唐突に、1件のおにぎり屋が頭に浮かんできた。

駅の改札の中。お惣菜や飲食店が集まったコーナーの一角の、小さなおにぎり屋さん。ショーケースに大事そうに並べられたおにぎり。電車を降りるときに見たような気がする。あった気がする。

ああ、あれだったのか、と思った。私が食べたいおにぎり。

駅まで戻って駅員さんに聞いて、入場料を払って改札の中に入るとそのおにぎり屋さんはまだ営業していた。もうムズムズは消えていた。

しゃけと明太子を買ってホテルに帰る途中、「なんか」の正体がやっとわかってきた。

とてもシンプルだった。
おにぎり屋さんじゃない別のおにぎりを食べることを想像した時に「それを食べても元気にならないから」と感じるからだ。もっというと「それを食べたら余計に疲れそう」というか。今の私にとってはあまり望ましくないということだった。

何度も言うけれど私はコンビニのおにぎりも好きだし食べるし、至って平凡なこだわりのない食生活を送っている。
ひとりのご飯となるとさらに適当になってしまう傾向があって、いつもパッと目に入ったものを選んでいた。

でもどういうわけかその日の私は、今これを食べた結果どうなるのか?ということを真面目に考え、感じ取ろうとしていた。「ムズムズ」がそれを表していた。

たぶん私は、元気になれるものを求めていた。
元気になれるものっていうのは「手が込んでる」ともちがうし「手作り」ともちがう。添加物の有無とか無農薬とかカロリーの高さとも私にとっては関係ない。

うまく言えないけど食べ物に込められたエネルギーみたいなものを自分なりに受け取って、今の自分に合うものを探そうとしていたような気がする。

思えばその数日前から随分落ち込んでいて、やっと浮上してきたところだった。もう大丈夫だと思っていたけど、まだまだ本調子じゃないんだなあと思った。

食べ物のエネルギーなんてそんなの気のせいじゃん、と一蹴する人もいると思う。私も今まで考えたことなかった。でも一度経験してしまうと、理屈はともかく納得してしまう。

ホテルまでの道を歩きながら、自分の中からわいてきた「なんかちがう」を分解できたことがじわじわと嬉しくなった。自分への理解と信頼がちょっとだけ深まるような気がする。

言葉にできない感覚的な「なんか」は日々内側から生まれる。
靴を選ぶとき、BGMを選ぶとき、文房具を選ぶとき、イヤリングを手に取るとき、本を読むとき、ドラマを見るとき、誰かと向き合うとき、ある時間、ある場所で。「なんか嫌だ」「なんか気になる」「なんか違う」。

「なんか」はその度に生まれて、対処しなければさっと消えていってしまう。たいしたことじゃないかもしれない。無視だってできる。だけど私はできるだけ「なんか」の分解をしながら生きていきたい。おにぎりの最後の一口を食べてそう思った。



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